金子家文書〜羽柴秀吉による四国攻めへ〜
いよいよ『天正の陣』の前夜と言ってよい時期である。
中国国分と、秀吉包囲網(小牧・長久手の役終結)の瓦解を背景に、毛利家の秀吉服属大名化が確固たるものとなり、長宗我部家は孤立無援に陥る。
(16)長宮元親書状 天正12年(1584年)11月4日
深重申談候上候弓矢遂存分於彼表領知一廉可申合候、委曲瀧本寺可被申達候 恐恐謹言
十一月四日 長宮元親
金備 参
(独自考察)
同日書状で次の(17)元親、信親連名の書状とは別に、かなりかしこまった書状を元親から元宅に送っている。「弓矢遂存分於彼表領知一廉可申合候」とは、金子元宅が戦の末「彼表領知」する件を相応に相談して取り決めようと言っている。この詳細は後の(18)で伝えられるものと合致するものであろうと考察できる。
(17)長宮元親 長彌三信親 連署書状 天正12年(1584年)11月4日
御子息始末之儀承候、對我等別而御入魂之儀候條自然之儀候共、貴所御時不相替可申談候其上勿論周敷家於郡中如何様に被申方候共相違有間敷候、委曲瀧本寺可有演舌候 恐恐謹言
十一月四日 長宮元親 長彌三信親
金備 参
(独自考察)
「御子息始末之儀承候」=「周敷家」=後(21)「毘沙壽丸」であろうと考察でき、「貴所御時不相替可申談候」と言っている通り、元宅の次の代まで替わることなくご相談申し上げると約束することから、元親の次の代である信親との連名にしているのであろう。長宗我部-金子同盟関係が次代まで続くようにとの思いが込められていると考察でき、当然、情勢不安定に対応した現同盟関係強化を狙ったやり取りであるとも読むことができるのである。
(18)中輿一兵重治 瀧本寺 連署書状 天正12年(1584年)12月14日
切々御音信御情被入申段、祝着是非難申述候旨直々以雖及申報候猶於我等も得其意可申入候併て奇特千萬至候
一 徳蔵寺之儀は、先書にも申入候き、互之始末は無相違趣に候、彼方表裏可被相含事も可爲存候、外に此方之段不相替上は如何と存事候、但證人之儀は内證手筈共候、久彦被申定趣、不可有異儀候條、可輙と存候
一 従藝州仁躰被差渡候歟、其故黒山各於湯月御談合半之由候哉、更不可有珍儀候、藝州もいまだ御手前無油断相聞候、其上當時此方可被及御鉾楯儀可爲御見合候歟、殊宇和表への儀中々不可被成御気遣候、當方一味の分は丈夫に候間可御心易候世上被相計被申付候間少々儀においては珍事あるまじく候、但し大篇變化之段は又外之事候
一 道前表之儀は此方於被及手段は手筈にもよるまじく、とかく相含掌内に被存候條、縦相支儀候共、於其期は可御心易候
一 其境御入組之儀は先々此中趣にて被御覧合尤候、右に如申世上相違候はは以前に諸方手成可被申談候
一 道後表方之儀猶被聞食合追々可被仰越候
猶期來音不能詳候 恐恐謹言
十二月十四日 中與一兵 重治 瀧本寺 榮音
(独自考察のポイント)
・中與一兵 重治が新登場である。白石氏は(中島與一兵衛)としているが、愛媛県史資料編では中島重弘としている。中島與一兵衛は、長宗我部氏の傍流といわれる土佐 中島氏の名であるようで、天正11年の引田の戦いで討死したといわれる中島重勝も、その跡を継いだ中島重房も中島與一兵衛を名としたようであるので、ここは年代的にも、名前的にも中島重房のことではないだろうか。
・(12)で初登場した徳蔵寺がここでは最初の條で取り上げられている。この徳蔵寺とはなに(誰)か?
『金子備後守元宅』(270頁)で白石氏は徳蔵寺を元宅の使僧であり、大町村字北の町にあった古刹であったとしているが、この『金子家文書』の記述からはそうではないように読み解くことができると独自考察する。
【徳蔵寺】は、周布郡廣江村にあった《参考史料リンク》。この場所は、新居郡氷見に隣接し、中山川(宮ノ下川)の北岸[今在家]、この[廣江]、[北條]、そして内陸に[周敷]と続く立地の中に存在するのである。この地域では重要な寺であったようで、「広江之由来」が所蔵されているほか、いくつかの貴重な寺宝が収蔵されているとある。また、近くの「五所神社」の別当寺でもあったようである。
(独自考察)
(7)天正十一年正月から懸案として登場している“黒山”(黒川山城守)の懸案の内容がこの書状である程度、考察することができる。「徳蔵寺之儀」、「黒山(之儀)」、「道前表之儀」、「其境御入組之儀」これらは全て同じ話題であると独自考察するものである。
「一 徳蔵寺之儀は、先書にも申入候き、互之始末は無相違趣に候、彼方表裏可被相含事も可爲存候、外に此方之段不相替上は如何と存事候、但證人之儀は内證手筈共候、久彦被申定趣、不可有異儀候條、可輙と存候」
この條からは、徳蔵寺が「互之始末」の仲裁に入っているように読むことができる上、「彼方表裏可被相含事」「外に此方之段不相替上は如何と存事候」などと、相手方への不信があるようにも読むことができる。よってこの不信に対して、「但證人之儀は内證手筈共候」と人質(※ここも『土佐物語』(※四四五頁/237コマ参照)に河野氏が「家老平岡人質として岡豊にぞ相詰めける」とある裏付けの一つになるか)で担保した上に、伊予軍代の久武親直が「久彦被申定趣、不可有異儀候條、可輙と存候」と懸案に対する後押しのようなことも書かれている。
「一 従藝州仁躰被差渡候歟、其故黒山各於湯月御談合半之由候哉、更不可有珍儀候、藝州もいまだ御手前無油断相聞候、其上當時此方可被及御鉾楯儀可爲御見合候歟、殊宇和表への儀中々不可被成御気遣候、當方一味の分は丈夫に候間可御心易候世上被相計被申付候間少々儀においては珍事あるまじく候、但し大篇變化之段は又外之事候」
この條では、「従藝州仁躰被差渡候歟」と「其故黒山各於湯月御談合半之由候哉」とが並列で書かれ、「更不可有珍儀候」と言って、藝豫一味(黒山もその仲間であること)が土佐側にすれば想定内であるとも取ることができる。
そこに「藝州もいまだ御手前無油断相聞候」と金子元宅の藝州に対する影響力を評価した上で、「殊宇和表への儀」は心配ないと言って、ここでも金子元宅に対し、藝豫方面に集中すべしとの土佐側の意向を伝えている。
ただし、可能性として毛利が完全に羽柴の服属大名となった上、近畿と中国の二方面から四国に攻め入られること、後におこる“『天正の陣』を想定してはいた”ことが「但し大篇變化之段は又外之事候」の一言から読み取れるとも独自考察する。
「一 道前表之儀は此方於被及手段は手筈にもよるまじく、とかく相含掌内に被存候條、縦相支儀候共、於其期は可御心易候
一 其境御入組之儀は先々此中趣にて被御覧合尤候、右に如申世上相違候はは以前に諸方手成可被申談候」
この二つの條では、金子元宅が道前方面へ進出することへの長宗我部としての後押しの表明が伝えられている。特筆すべきは、「其境御入組之儀」とあることで、新居郡と周布郡の境が、歴史的事情(※河野-細川の対立から)により非常に複雑な地域であったことが土佐も認識している程に明確な事実であったことが解る。
この書状から読み取れる重要な事項は、
1.金子元宅と黒川山城守が、周布郡北部を巡って対立しており、長宗我部は金子を支持し、後ろ盾になっていること。
2.黒川山城守は長宗我部に懇望するような関係であるものの、未だ湯築一党として見ており、信用しきれていないこと。
が、天正の陣の半年前、天正12年12月時点のこの地域の情勢であったことが明確に読み取れることである。
(19)桑瀬通宗等連署状 天正12年(1584年)12月14日
比見金子其外於郡内何れ旁も對元宅不存分之人、吾等山分に、相圍間敷候、若於餘山随分御爲可然様に可致才覚候、於里邊御入眼賴入候仍爲後日 恐々謹言
天正十二年十二月十四日
桑瀬源七郎
通宗
同 彌介
同 孫七郎
金子備後守殿 人々御中
(独自考察)
新居郡、高尾・高峠のある西条方面から土佐へ抜ける土佐街道の峠の一つである【桑瀬】
この交通の要衝を金子元宅が天正12年12月時点で、支配下に置いたと言ってよい書状である。
「若於餘山」とあることから、同じく土佐へ抜ける峠を他にもこれまでに押さえていたのであろう。
この時点では天正の陣を見据えた対応策の一環というよりは、(18)からも読み解けるように、対湯築一党への対応策(土州を後ろ盾とした金子 vs 藝州を後ろ盾とした湯築一党・黒川山城守含む)と見るべきであると独自考察する。
ただ当然、(18)でも「大篇變化之段」と言って『天正の陣』が起こり得ることは想定ができていないわけではないため、対湯築一党への対応策はひいては、羽柴服属の毛利に対する備えに繋がることは念頭にあったとしてもおかしくはないのである。
どちらにせよ、金子元宅としては、土佐との連絡や往来の重要性がかつてないほどに高まる中、土佐街道の各峠に敵勢力が「相圍」われていると情報漏洩にも繋がるため、桑瀬含む餘山を完全に支配下に置いておく必要があったと考えられるのである。
(20)金子元宅 長宗我部元親 連署覺状 天正13年(1585年)5月18日・26日
一 於道前表我等不知行仕候、御爲付而如此候
一 壬生川行元、於他國仕候は、彼知行分、北條貮千貫ほと明置候、此内北條之儀は従先年細川家に相濟(※わた)し右之成行に有之、於其節、可得御意候爲御心得如此候
一 萬一道後表依存分國中之儀は、可爲不本候、於左様は國切可罷成候、是城下、國領に付而得御意候可有御分別事
一 對御貴殿我々無二之覚悟を以、忰進退及迷惑候はは子共忰家之義可有御引立事
一 境目分家之儀付而石盛被得御意由候、自然彼被申分、於御取上者其迄御内證被仰聞べく候事
一 彼家之義付而我等存分得御意事
一 箇條之御理、瀧本寺條々申談候事
一 得御意趣、於御分別は、此覺に御判被作、可被懸御意候、一兩度、以箇條得御意被置、進給置候へ共、御判無之候へば、向後之鏡にも、不罷成候條如此申事候、箇様に得御意候ても、拙者存分相違候へば、不入事に候 以上
五月十八日 金備 元宅
元親公参
五月廿六日 長宮 元親
金備参
(独自考察)
この連署覺状は、他の書状よりもさらに考察を深くすべき内容であると思う。
先ず元宅が作成した覚書に、元親が「御判被作」ったものであり、元親が元宅との契約覚書にサインしたような性格のものである。独自考察を交えて以下に解読していく。
先ず最初の條で、元宅は元親の「御爲」に道前表を知行していないと伝え、
次の條で、先年、壬生川行元が他国に仕えるに当たって、彼の知行であった北條の二千貫ほどの領地を明け渡し、その際、この内の北條を元親の御爲に細川家に渡し(※相濟を“済んだ”と読んでは文意を履き違える。「濟」は「わたす」とも読む。)たので、自分(元宅)は知行していないのであると言い、その事柄について元親の御意を得たいと申し出ている。
→この背景にある情勢は何か、独自考察であるが、元宅が元親の御為に細川家に知行を渡したというのは、本能寺の変後、秀吉に抵抗し、阿波において元親と連絡を取り合い、元親と織田信雄との連携を画策し、反秀吉勢力の結集に努めたと言われる細川吉兆家19代当主 細川昭元(信良)へ渡したのではないかと考察している。
時系列の独自考察はこうである。壬生川行元(※不明だが、天正10年4月の秀吉による来島・得居調略から天正11年3月の来島通総脱出の間のどこかのタイミングで来島一党として秀吉麾下に移ったと独自考察している)が先年(※天正13年から見て“先年”とあるから前述の天正10〜11年でも違和感はない)、北條の領地を明け置いたことを、その時既に元親と入魂であった元宅が報告、それを受けた元親は丁度、上方のパイプであった細川信良との関係性を築いていたところであったので、その一環として、当該領地を献上したものと考える。
これを前提と仮定すると、当然、湯築一党にとっては看過できぬことであり、特に周布郡に影響力を持つ黒川氏は当事者の一人であると言ってよく、この北條知行の件を懸案として、天正11年正月の書状(7)に「黒山之儀」が初登場したのだと独自考察をめぐらすところである。
続いて第三條では、もし自ら軍を起こし、長宗我部陣営が道後(湯築)を傘下に収めた暁には、守護領有地は御意を得るものの、その他は“切り取り次第”にさせてもらうと宣言している。
さらに第四條では、忠誠の見返りに、倅とその家(※(17)また次の(21)より毘沙壽丸の周敷之家であろう)の引き立てを要望している。
そして第五條では「境目分家之儀」(※前項同様に毘沙壽丸の周敷之家であろう)石盛について倅から相談するので宜しくと願い出ている。さらに続く第六項で「我等存分得御意事」と言って都度決裁を仰ぐことを約束している。それを第七項で、諸々の案件は瀧本寺に相談し筋を通すと約束し、文末でこの覚書を持って契約成立とし、後日の証拠とする旨まで約束している。
この連署覺状の発行時点をもって、金子元宅が、これまでの外交的同盟関係(藝豫一党に翻る可能性もあった)から、完全なる長宗我部麾下としての立ち位置を明確にしたと言ってよいのではないかと独自考察するところである。
(21)金子元宅 置文 天正13年(1585年)6月11日
尚々必々□□□□外聞可然様□□□取沙汰いたし皆々しつかりして第一に馳走可申事専一候
向後御沙汰候はは如此に申おき候き
一 忰家之様體我等儀は兩家衆中に可被申聞候周敷之家當家同前に我等申付義に萬事毘沙壽丸可申付候彼家之人體を別に被相定間敷候乍去毘沙壽丸可申付意主次第迄候
一 於郡中自然只今之もち口に付預申衆は兩家家中覚悟は被相濟兩家をあひすて、被打置候か、左様被成候共土州へ他國人□(可)被仕候少もよろしき存分有間敷候
一 元親・信親・久内蔵・瀧本寺を以深重申合辻御座候間土州より郡中へ被仰談候はは兩家心遣有間敷候萬一於郡中被及心遣~(破出)~於爰元不相濟候はは、元親公御父子より御數通すみ付を給置候間、此旨被任土州可被得御意候、元親公御存分が不立候はは外聞も不苦候、よねんもなき事に候
一 此弓矢元親父子被任御存分に候はは西表にて一かど被仰付候間、是(且)又御一通候はは、なべ千代丸を人體に被仕候て、石四兵くやくを被仕候て、可然候、知行等之儀は兩家衆中、忠義手がら次第に可被申付候
一 かたな、其外どうぐ以下は、みなみな毘沙壽丸可被取候、其上心ろ付毘沙壽丸やり候はは存じ次第迄候
ひみしんほち事は毘沙壽ずいぶんにひきまわし、可被申候、兎角兩家に萬一きづ付候はは毘沙壽丸覚悟仕らではくちおしき迄候、第一此條専一候 恐々謹言
六月十一日 金備元宅
毘沙壽丸殿 参
(独自考察のポイント)
・追伸にて金子元宅から、元服前の少年であったろう毘沙壽丸に対し、しっかりと言い聞かせるような気持ちが念押しされている。
・文頭「向後御沙汰〜」とあり、「この後、上からの“御沙汰”に対してどうすべきか言っておく」という趣旨の【置文】であることが解る。
・最初の條;後半の「彼家之人體を別に被相定間敷候」と「意主次第」が重要である。主の意向次第で、勝手に決めてはならないという旨であり、このことから“彼家”の【家】=【宅】=“在地領主の拠点”と読むことができる。
・第二條;郡中で万一のことがあっても、一所懸命、退路を絶つよう促している。
・第三條;長宗我部家への忠誠の念押しと、後ろ盾として「元親公御父子より御數通すみ付を給置候間」とあるようにお墨付きをもらっているので、元親公の御意を得るように、そしてその御意には余念なく素直に従うように促している。
・第四條;「此弓矢」とはどの戦か?「西表」(西の方角)で「一かど」(一方面軍)を「被仰付候間」と言っており、小競り合いではなく、西の方角での大きな戦であることが読み取れる。さらに後半部分で「知行等之儀は兩家衆中、忠義手がら次第に可被申付候」と言っていることから、(20)の第三條「萬一道後表依存分國中之儀〜」と内容が合致するように解読でき、長宗我部による道後方面への侵攻を想定した一文と読むことができる。
長宗我部側から、さらにまた「御一通候はは」、鍋千代丸をも仕えさせることを「石四兵」と口約束していると言っており、長宗我部の服属土豪として、軍功次第で西方へ知行地を拡げられると言っている。
なおこの「石四兵」だが、白石氏「金子備後守元宅」でも、愛媛県史でもこの記述ながら、現物を見ると私は「石谷兵」と読めるのである。独自考察であるが、【石谷兵部大輔光政】か、土佐へ落ち延びていた【石谷兵部少輔頼辰】であろうと思う。
・第五條;「かたな、其外どうぐ以下は、みなみな毘沙壽丸可被取候、其上心ろ付毘沙壽丸やり候はは存じ次第迄候」とは、文中「其上心ろ付毘沙壽丸やり候はは」とあるところから、“境目警備警戒”を申し付けているように読むこともできるのではないだろうか。(20)でも「境目分家之儀」とあり、これまでの金子家文書でも“境目”が懸案になっていることは明らかである。
また同様に“境目”と言ってよい「ひみ」の新発智丸のことも年長者である毘沙壽丸に“大いに手引きをめぐらせる”よう言い聞かせており、「第一此條専一候」と、このことが最重要なことであると重ねて伝えている。
(独自考察)
金子家文書の中でも最も有名な本状は、桑田忠親著「日本人の遺言状」などでも「金子元宅遺言状」として紹介されるほどであるが、その性質はまさに“置文”であり、近世以後の遺言の原型ではあったとしても、本状は“守り行うべき規則などを書いた文書”としての“置文”であると考察できる。
当ページ上の(17)より登場する【周敷家】についての独自考察がここで完結する。
上記(独自考察のポイント)でも述べた通り、この“家”は、在地領主制の“宅”であり、長宗我部家服属土豪となった金子家が在地領主として、長宗我部家の御意を得ながら治める“知行地”としての“家”であると独自考察するものである。
長宗我部家からの知行地としての周敷家の在地領主として毘沙壽丸を置くという性格のため、「兩家家中」などと、本家と分けた表現を用いていることもある。
(20)最初の條でも「於道前表我等不知行仕候」と“知行”という言葉が使われている。
ここで独自考察してきた【金子家文書】の(1)「起請文」天正九年七月二十三日をもって同盟関係となった長宗我部家と金子家が、その後、“黒山”とのやりとり(天正十一年正月(7)以降)や、伊予軍代 久武親直との「起請文」(9)、さらには、“證人衆”(天正十二年八月(12))、“御證人替被差越彌御入魂之驗”(天正十二年九月(14))を経て、天正十三年五月、前項(20)の“連署覺状”を持って、金子家は完全に長宗我部家の服属土豪となったのであると独自考察する。
新居・宇摩の東予二郡は、天正九年夏ごろより土州の影響が表面化し、そこから4年を経て、天正十三年夏に、完全な長宗我部麾下となったのである。
この時点では天正の陣が起こることは決定してはいないものの、道後方面への侵攻は企図されており、また(18)「其境御入組之儀」などとあることからも、新居郡と道前との境目は歴史的紛争地域と言ってよく、遺言状をまったく必要としない情勢であるとも言い切れない。しかしながら、それを勘案しても、明確に長宗我部麾下となったことで家中に軋轢などが生じ無いよう、しっかりとした方針を打ち出す意味も込めて、この“置文”や、前項(20)の“連署覺状”が必要であろうことの方が現実的であると独自考察するのである。
白石氏の「金子備後守元宅」を背景とする通説では、新居・宇摩の二郡が長宗我部麾下となったのはもっと前であるとの認識であるため、上記のような私の独自考察のような見方にならないのであろう。
(以上)