天正陣実記(天正陣以前)独自訳

『天正陣実記』の前半、天正の陣以前の部分を、管理人が独自訳する。

※()にて加筆もあり。

河野家一族評定の事 黒川石川両家不和の事 併に軍の事

こうして、河野家はその昔から数代にわたって伊予国の国主であり、当国の地頭小給人等ことごとく河野家幕下に属し、その威光は輝かしいものであったが、近頃は武道衰え、政も行き届かず、その地頭小給人等も河野旗下に属せず、ほしいままに領地を守り、ともすれば、地頭をうかがって遺恨を深め、騒乱となってお互いに軍勢をとどめれば、村里は荒れ、百姓の耕作は妨げられ、或は殺され、人々は親を捨て、子と離れ離れになり、あちらこちらに逃げ惑い、目もあてられない有様であった。

 

そうして、河野、来島、徳井等は、薦田 大西入道と相談し、相応の旗頭を人選して郡中を治めようと、皆々を集め評定を行い、松木、徳永、寺川一族に申したところ、「中国の石川氏の中でも、石川左衛門尉こそ軍学武術に達した大将であるので、この人に頼んではどうか」と言ったので、皆々納得し、評定は決した。

 

すぐに使者として近藤、寺川の二名を立て、進物を用意し、五十人を引き連れ中国へ向かった。さて、備中国高山の城主は多田満仲の末裔で、石川左衛門尉という知勇兼備の大将が、そのころ中国にて細川某と合戦し、それに勝利し、一国の大半を奪った。この石川というもの、いつも鍛冶を好み、刀を鍛えていた。後に、宗近

(「小狐丸(こぎつねまる)」の伝説で有名な平安中期の刀工。京都三条に住み、三条小鍛冶と称す。現存する有銘作品は少ないが、「三日月宗近」などにより、優美な太刀姿で知られる。)

の打物にも恥じないほどの作となり、今に伝わる左衛門という銘有はこの人の作であるといわれている。

 

近藤と寺川は程なく備中に着船し、まず高山へ案内され、早速二名を城中へ招き、使いの趣旨を尋ねられた。

両人が言うには

「このたび伊予国、河野家の武勇衰え、地頭給人等所領を侵し、ついには味方同士で騒乱となり、民百姓の嘆きいかばかりかと不憫に思うばかりでございます。何卒、あなた様の御軍配におすがりしたくお願い申し上げます。」

とのこと、

進物として御酒一樽、生鯛一箱を献上したところ左衛門は大変喜び、酒肴を以って色々ともてなし、息子の虎之助を石川伊予守と号して二郡の旗頭として下した(1521年)ので、地頭、小給人等大いに恐れ、石川家が相続するならば我々も力を合わせて皆従おうと言って、相次いではせ参じ、盟約を立て血判をした。

これは先年上伊予の給人どもが上方より帰国しようとしたとき、海が荒れ、強風によって危うい状況にあったが、石川氏がこれを聞き、船を出してこれを救い、自らの館に滞在させ、すべての船が壊れてしまっていたので、自分の船を出して伊予まで行かせ、まもなく無事到着したということがあった。

 

石川家が旗頭となったことによって、二郡の兵乱は静まり、高峠に城を築き、石川伊予守を大将として、後見として石川源太夫が万事を執り行い、そのほか、地頭、給人は新居郡宇摩郡に山城や、城屋敷をつくろってそこに住んだ。

周布郡 黒川と石川、不和の事 併に軍の事(⇒1530年)

ところで、新居郡には松木、金子、藤田の三人、西条に近藤、徳永、塩出の三人の六人を郡司と定め、宇摩郡に薦田、野田二人を判頭と定め、石川氏と同盟を結び一家となり、高峠の支配を行った。

 

このようなときに、石川家の郎党、赤川十座衛門、粟屋六郎左衛門、坪井又太郎というものが、周布郡と新居郡の境にて鹿、猪を狩りを行ったがそのとき黒川領の田畑を荒らしてしまい、その百姓がこれを見て黒川家へ訴えたので、黒川は大いに怒り、若武者五十騎程出して「これ以後さらに狼藉すれば討ち捨てよ」と申しつけ、毎日領分境へ遣わした。

 

このことを野津子の工藤氏が聞いて、元より遺恨のあった黒川家であったので、多勢をもって毎日領分境へ行って狩をしたので、黒川の郎党などが「毎日こちらの領分を猪狩するだけでなく、田畑も荒らすこと法外の至りである。以後このようなことをしてはならないと申し付ける」と言えば、工藤家側も「まったくもってそちらの領分にあらず、こちらの領分である。」といって言い争った。そして若侍が「我々ではなく、主君黒川よりの上意である。残らずかかれ!討ち捨てよ!」と呼びまわる声に若武者どもはつぎつぎに切ってかかった。工藤側も兼ねてより準備しており、弓矢をもってさんざんに射掛けたので、即座に若武者二十人ほど射殺され、残る若者は「とてもかなわぬ、はよう引け!」と逃げ帰って、かくの通りと申せば、黒川さらに怒り、一族郎党をまねいて、「この義いかにせん」と評定を開いた。

 

今井氏が言うには「あながち工藤の一存にあらず、先年石川氏が鳥狩をしたときから、人を出して阻害したことがあった。このときに遺恨を覚えた。」と語ると、

戸田、久枝といった血気盛んな勇士が「どちらにせよ、このまま捨て置けば当家の武勇はそんなものかと笑いものとなりましょう。多勢をもって押し寄せ、その上で詫びを申せば引けばよい」と言い、その中でも今井は「そのようにすれば、こちらのほうから破綻させるようなものである。まずは石川へ使者を立て、その上で詫びを申さぬようであれば、そのようにすればよろしかろう。」といえば、

黒川をはじめ、筒井、伊藤、森田が堰を切ったように「そのように手ぬるいことではますます侮られるばかりである!されば大軍をもって石川を攻め、その期に乗じて中国をも切り取らん!」といって、急ぎ戦支度を始めた。

 

このとき石川伊予守がこのことを聞き、武士たちがほしいままに荒々しい大事を引き起こしてしまった事を今更どうしようもなく、隣郷のよしみであるのでどうにかしてこれを治めようと、石川源太夫をはじめ、六人の郡司のうちまず宇摩郡薦田、野田に書状を遣わし、宇摩郡ぼ武士を集めるよう催促をしたところ皆大いに驚いて急ぎ馳せ参じ、評定をしているところへ、黒川勢大軍を以って押し寄せてきたと村里は大変な騒動であった。それによって是非もなくこれを守備すべく準備をした。

 

ときは大永四年、黒川勢は舟山に陣を取り、久枝、今井など五十人のものたちを従え、舟山の南の谷間に伏兵を置き、戦いの半ばになったら敵の横手より攻めかかろうとつぎつぎに先兵を繰り出した。

石川勢は八幡山に陣を取り、十騎、二十騎、あるいは三十騎を東西南北に分け、合図のほら貝を吹いたら一斉に矢を射かけようとつぎつぎに先兵を繰り出した。

互いに間近まで迫ると矢による攻撃を始め、続けざまに射掛けると、石川勢の敗色が見え始めたそのとき、黒川の伏兵が横手から攻めかけたので、石川勢はたまらず逃げ出した。

黒川勢も「のがすまい」とわきめもふらず追い立てたところ、「いまだ!」といって石川勢は取って返し、ほら貝を吹けば、八幡山の谷間より石川勢あめあられのように矢を射たてたので、黒川勢は「これはかなわぬ」と逃げ出した。

大将黒川は馬上より「味方はなんと統制の取れていないことか。われに続け!と駆け出すと「すわ大将」と近藤但馬守、塩出左衛門が打ってかかった。

「やれ大将を討たすな!」と久米采女、戸田四郎左衛門の二人が近藤と塩出の横手から切ってかかった。近藤と塩出は大将をすて、この二人と渡り合い、火花を散らして切りあった。

なんなく近藤但馬守が采女の首を切り落とせば、戸田四郎左衛門これを見て、「これはかなわん」と逃げ出したが、背後から塩出左衛門が槍で突いたため、馬上で倒れ、地面に落ちたところを塩出の郎党が押さえて首を切った。

近藤、塩出はこの勢いに乗じて、敵多勢の中へ割って入り、四方八方の敵を切り倒したが、多勢の中で討ち死にした。

勝敗は決しなかったが、日暮れとともに両軍引き上げた。

黒川は今日の戦において味方の大半が討たれたことを大いに無念に思い、確実に野心がなくなってしまった。

黒川石川弐度軍之事併に石川勢敗軍評定之事附り三度合戦和睦之事

戦の後、黒川備前守味方の人々を集めて言うには

「何卒、徳井、来島を味方に招きたく思う」といえば、

戸田、久枝の二人が進み出て「徳井、来島は兼ねてより味方にござりまする。使いを以ってお頼みになれば、すぐにでも参るものとおもわれまする。我々が行って頼んで参ります」といえば、

「其の儀然るべし」として、

その夜戸田、久枝の二人はひそかに徳井、来島の陣屋へ行き、「我が主人が何卒、そこもとを味方にお招きしたくおもうており、我ら二人がまかり越して候、何卒御味方くださりますようお願い申し上げます」と頼めば、

「兼ねてより我らとて望むところである。」といって早速賛同された。

 

その夜すぐに黒川の陣所に来て「今宵のうちに舟形高峠へ押し寄せ、一気に踏み潰すべし、本日の勝利で敵も油断しておろう」と言って、その夜手配して徳井を先陣にして仕掛けた。

 

本隊は黒川の千余騎、後詰として来島の七百余騎、鎧の金物をはずし、馬のくつわを取り、郎党も音無く高峠へ急いだ。

石川勢は本日の勝利に疲れて休み、何も用心せず寝ていた。

明けがた、突然鬨の声とともに、山も崩れるほどの攻鼓を打って、もうすでに先兵は城のすぐそばまで押し寄せていた。

寝ているところにそれを聞き、大いに驚き「すわ、敵が寄せたるぞ!鎧はどこだ、甲はどこだ」とさわぎ立て、うろたえまわって、ひとすじの槍を大勢で引き合うやら、つないだままの馬にまたがって鞭打ったり、その間に城中へ駆け入って次々に切り倒していった。

 

石川源太夫が下知して「敵は小勢であるぞ!討ち取れ」とそこかしこへ駆け廻り、激しく下知したので、味方の兵たちはそこかしこに切り入り、その大半は討ち死にした。

 

なかでも工藤は、四方八方樫の棒で敵の真ん中へわき目も振らずに薙ぎ入り、次々に討ちちらした。

敵勢は「工藤を討て、手柄にせん」と十河、高橋、長野、桑邑の四人が左右から切ってかかった。

工藤は気づいて四人を相手に立ち回り、敵三騎を討ち倒し、堀を飛び越し、逃げていったのを、来島が馬上よりこれを見て、口羽新輔に言い伝え、射て討ち取れと言えば、新輔は弓をきりきりと引きしぼり、ひょうと放った。矢は外れず工藤の草摺の端を射たため、工藤は「是迄」と腹を十文字に掻き切って討ち死にした。誠に残念なことに、享年三十五歳大功の勇士であったが、ついに新輔の矢先によって亡くなった。

 

石川伊予守も「とても逃れられぬ運命である、腹を切る」と鎧の高紐を解きなさるのを見て源太夫おし止め、郎党に防ぎ矢を射させながら、険しい山道を伝って山道より忍び忍びに主従は松木方へ落ち延びた。

 

宇摩郡の地頭給人、高峠に戦有りと聞き、取るものもとりあえず駆けつけたけれども、もはや敗北と報告を受け、力及ばず引き返した。

 

黒川勢は大将を討ち洩らしたことが残念だと、桑村繁弥十郎が退出し「城に火をかけよ!」と下知したが、黒川思うところあり「無用である」と止めさせた。

 

黒川は日ごろの鬱憤をはらし、勝ち鬨を上げて帰陣した。

 

こうして生子山の城において、二郡の地頭一族を集めて軍評定を行い、金子、藤田、松木、薦田、野田は声を揃えて「日が落ちたら、八幡山の戦のように、夜中に面は西条より船に飛び乗り、夜明けに八幡山のふもとに船を着け、背後から閑道を廻り、挟み撃ちにすべし」といい、

石川大いに勇み「わが意にかなうものである」といって、松木、薦田に耳打ちして策をさずけ、その夜西条から攻めかかるに、

黒川も武功の勇者であり、かねてより海陸ともに遠見をつけて油断なく守っていたので、すぐに遠見の兵、馳帰って「浜辺にそって船が見えます。」といい、

もう一人来て「雲霞の如く兵船が見えまする!まさしく石川勢と思われまする。」と報告したので、

黒川「それこそ戦である。」といって合図の太鼓を打てば、「すわ!」といって兵馳せ来て準備をした。

 

黒川は「良い先例である。」といって二手に別れ、黒川備前守は舟山へ陣を張り、一方の大将は今井、大手門の矢倉に駆け上がって下知した。

このたびは石川を討ち取って新居、宇摩二郡を手に入れようと、勇み進んで待っていた。

まもなく、三町(327m)ほど離れて先兵は矢合を始めた。

横尾がこれを見て「手ぬるい!者どもかかれ、かかれ!」といえば、それぞれの軍勢声を上げて戦った。

本隊の大将石川 薦田がただ一人電光の如く黒川勢の真っ只中へ命を懸けて突入し、四方八方斬り散らした。

黒川これを見て、「すわや大将ござんなれ!」とまっしぐらに駆け来て、槍をひねって石川目当てに突きかかった。

石川も三尺八寸の大太刀を真っ向にかざして斬り結んだ。

丁度そのとき、近藤、横尾、久津、鈴木、一貫、白石、荒川、寺川などの一騎当千の勇士、石川の前に立ちふさがり、黒川を取り巻いた。

黒川の郎党 能島源内、大長刀を水車のように廻して回り込んできたので、石川勢がすこしひるんだところ、薦田がこれを見て「皆々情けないぞ!」と一丈あまりの棒を引っさげて、稲妻の如く駆け出、何者かが「腕前を見てやろう」といって騎乗の武者、歩兵などが、一斉にかかったところ、薦田の棒に当たって死ぬものが一度に三、四人もいたので、敵はこれに打ち立てられ、四方へ逃げた。

 

ここに松木三河守の一族に塩出三郎右衛門尉というものが、多勢の中へ切り入って戦ったが、敵に囲まれ危ないところを、敵の七、八騎を倒して、何とか引き帰ろうとしたところ、黒川家の侍で久枝五郎三郎というものが声をかけ、「すばらしい、塩出殿、そこもとのお働き、感じ入り申した!こう申すは、黒川家家臣久枝五郎三郎である。引き返して勝負致そう!」と声をかけられて引き返し、以前は朋友であったが、敵味方に分かれてしまえば敵である、されば勝負いたそうと大太刀をかざして渡り合い、火花を散らして戦ったが、両方無双の勇者であり、まったく勝負が見えないでいると、黒川方の若侍六、七騎来て「塩出をのがすな!討ち取れ!」と切り込んで戦ったが、石川方にも「塩出を討たせるな!者ども!」と下知したので、横尾、松木の家来等十騎ばかり駆けつけて、両雄を互いに助けた。

 

双方しばらく休戦しようとそれぞれに引き、両陣で人馬休めた。しばらくして黒川方より一色与五郎、菅太良左衛門、戸田惣八郎が小高いところに駆け上がり「敵は疲れているぞ!一気に踏み破れ」と大声で言い叫べば、周布郡の軍勢、一気に競い合って戦った。石川勢はかねてから準備していたことなので、こしらえておいた火矢三十挺を一度にそろって放った。

黒川勢は思いも寄らぬ火矢に、焼けただれて死ぬもの数知れず、石川勢は「いまだ!おう!」と攻め詰め、追い詰め戦ったので、黒川勢は乱れ、引き退くのをさらに追いかけ、分捕り、手柄を立て、勝負を一気に決しようと、勢いに乗って攻め戦った。

 

心中では戦えると思っても、総崩れとなれば是非も無く本陣まで引き退いた。

勝ちに乗じて石川勢は一人も生きて返すなとここかしこで戦い、黒川勢の大半は討たれ、それぞれに逃げうせた。

 

大将黒川も三十騎までになって落ちていったが、松木、野田、薦田が、八幡山のふもとより回り込み、挟み撃ちにして大将を逃すな、討ち取れと叫ぶ声を聞き、黒川も今は叶わぬと、接近戦にて、馬上の武者、歩兵関係なく突いて廻ると、石川勢は黒川一人に駆け立てられ、進んだその隙間からどこかへ逃げてしまった。

 

佐伯と寺川はただ二人、後に残って戦ったが、敵味方ともに助勢するものもいないので、二人とも力弱り、佐伯が言うには「そこもととわれとには個人的な遺恨はない、勝負は今だけではあるまい、また改めて勝負をつけよう」と、お互い分かれて帰った。

 

石川勢は味方を集めて勝ち鬨を上げ、地頭、給人等を先頭に威風堂々、居城に帰陣した。石川はあわせて二郡の人々に恩賞を与え、高尾に出城を築いて黒川に対する構えを固めた。この戦で、周布郡の一部を石川勢は切り取ったが、これを領有せず、使者を出し、「貴殿は隣郷のよしみであるので、今後お互いに遺恨を残さぬよう会合いたそう」といい、この土地を返した。これに感謝し、和睦し、無二の中となった。

 

高尾の出城には、石川源太夫を大将とし、総勢二千余騎が立てこもった。

郡中の大体のことは彼に任せたので、先のことは大方納まったが、いつとはなく奢りの心が生じ、高峠をないがしろにし、郡中をも思うとおりに牛耳ったので、薦田、野田をはじめ六人の人々評定して源太夫に異見をしたが、受け入れられず、陰謀によって彼を招き大勢で切り捨てた。

石川源大夫には子が二人おり、兄源五、弟源六というが、兄は切腹させ、弟は幼年ゆえ出家させ、秀海と号して後には、寺の主僧を勤めるまでになった。

 

ここに、難波江の某というものが行灯をかかげて住んでいたが、桂谷に的場をこしらえて古銭百文を割り当てた勝負の弓稽古を行った。石川は近くであったので見物に行った。これにより、その谷を射場の谷と名づけた。

 

その後、石川の内室が産所の祈願をしに真言院へ使者を立たせ、一千座の薬師の法を謹んで行った。すぐに安産して虎千代(通清)と名づけ、父母は深く寵愛した。

 

両郡の人々は残らず高峠に燈明料として山の麓に五十一畝の土地を寄付した。

 

奥の内中の郷に館室を造り、石川の下屋敷とした。東には虎千代が住んだ。

 

天文十四年(1545年)二月五日午後2時ごろにれん歌の会が始まった。同三月より民百姓に武芸を指南した。讃岐越之助という香川家の浪人というものが、万事に達しているということで、右筆に召抱えた。

 

虎千代を任官して備中守と名乗った。

 

弘治二年(1556年)阿州三好の娘が備中守に嫁いだ。

 

畑野の薦田四郎能清が能保と改名した。

 

永禄二十二年?(1579年?)備中守には3人の娘がいた。

一人は金子彦十郎に嫁ぎ、もう一人は松木新之丞に嫁入りし、残る一人は河端甚左衛門と密通して行方知れずになっていた。

 

金子彦十郎は後に備後守といい、元亀三年(1572年) (1582年?) 壬申、土佐の長宗我部元親、阿波、讃岐を従え、破竹の勢いで四国を切り取ろうと、天正のはじめより、伊予の二郡も攻めようとした。

 

これによって、石川備中守両郡の人々を集め、評議一決して降参した。

 

元親からの返事には、備中守の子息を人質に取らんと言ってきたが、備中守の子は皆女子であったため、近藤長門守嫡男彦太郎を土佐へ人質に遣わした

(近藤氏は藤原氏より出 代々阿波勝浦の新居見山城主たりしが 室町時代 畑野城薦田氏を頼り西条舩形横山城主となった 天正年間近藤長門守は高峠城主 石川備中守道清の女婿となり 天正13年7月城主虎竹丸を補け宇新両郡諸城主を 指揮し 小早川の大軍と野々市原に戦い花々しく討死し その子太兵衛直信は幼 にして畑野に逃れ 後此地横水に転住し祖霊を祀りて三崎神社を創建したが明治 41年滝神社に合祀した)

ので、元親は安堵して、騒動は治まった。

 

天正二年(1574年)(⇒天正十二年 1584年の誤り?)備中守道清(⇒通清)いままでにないほどの医術を尽くし、祈誓したが効果なく、ついに十月十七日ひっそりと頌を書いた。

その文に曰く、『本来一路無海山 雲水何物虚空是閑』ついに亡くなられた。

一族は悲しんだが是非もなく、保国寺へ納め、宝勝院殿白山宗輪大居士と号した。地領八十畝を永代燈明料とした。橘の郷の松木三河守息女が土佐へ嫁ぎ、掻上の城主徳永因幡守は伊曽の社へ地領五十畝寄進すると言う。