天正陣実記(天正陣)独自訳
『天正陣実記』の後半、天正の陣の部分を、管理人が独自訳する。
※()にて加筆もあり。
太閤秀吉公伊予に討手を向らるる事、併に石川評定勢揃の事石川勢高尾城に籠る事高尾出城軍の事
大舜は民間より出て一天の君となり、漢の高祖は禮拝という所より出て天下一流の主なり、我朝の秀吉は其身賤しきより出て高位に昇り世の中は静かに治ったのは、誠に知勇を兼たる大将軍である。
しかし、いまだ伊予国は秀吉に従わないので、討手として、芸州の毛利元就の弟、小早川左衛門祐隆景を大将として、中国勢三万余騎を引きつれ、兵船数百艘に乗って伊予を目指し発した。
そのことは先だって高峠へ聞こえたので、諸大将を集めて評定を行った。
そのとき、故備中守の子虎千代はまだ八歳であったので、万事近藤長門守が後見をしていたので、早速郡中の武士を招いて言うには
「このたびの大事に対し、各々いかが思われるか」(「豫州来由記」によれば、西条の武将近藤長門守が「今度の大事を皆々いかが思われるか、されば、秀吉の矛先には防ぎきれるべくもなく、大敵に対し降伏するのも武士の習い、むやみに恥とも言えまい」と降服を主張した。)と聞いたところ、
松木三河守頼久、薦田四郎兵衛能清、徳永信貞は口を揃えて「秀吉の軍勢と戦っても到底守りきれますまい。だからといって一旦長宗我部へ降参して、又もや隆景に降ることは口惜しい。各々相談してよく考えなければなりますまい。先、我々が思うには一旦隆景へ降参して事を鎮め、其上元親へ相談してどうにかしよう」といえば、
塩出をはじめとして剛勇の武士が言うには「武家の意地なれば、命は互に惜しくはない。あちらこちらと降参して生き恥をさらすより、いさぎよく討死して名を末代に残すべし」と皆々前に出て言った。
近藤長門守の心の内が思いやられて不便である。近藤は「みなみなよきにはからえ」と奥に入ってしまった。
そこで金子備後守元宅が言うには
「世に臆病者の武士程浅ましい物はない。昨日は長宗我部に手をさげ、今日は小早川に腰をさげ、所詮心配事を抱えて世渡りするよりは、討死して名を後代に顕すより外はない」と一喝したので、
いずれも剛強の人々は機嫌良く賛同したが、これによって高峠の滅亡の時に至らしめることになった。松木、徳永、薦田が言ったようにすれば領地は保証されたはずであるのに残念なことである。是は勇に似て勇にあらず、実に犬死である。
ついに評定は終って「各勢軍勢を揃えられよ」とまず、
金子備後守、舎弟対馬守の一族と、野々下右衛門尉の郎党には立花彦左衛門、加藤彦右衛門、真鍋左兵衛、岩佐甚左衛門、岡田七左衛門、荒川清兵衛が参戦、
生子山城主松木三河守嫡子新之丞頼宣一族からは塩見三郎左衛門唯頼、松木新左衛門、久国舎弟貞八郎久宗、加藤庄左衛門、小野忠衛門、仙波市左衛門、渡辺助右衛門、渡辺十左衛門、黒川新右衛門、ただ鈴木四郎太夫重保だけは彼是三十人ほどにて生子山城に残った。
岡崎の城からは藤田大隅守重信一族に矢野左馬之介の信久、神野三郎左衛門有宗、
畑野の城からは薦田宇兵衛吉清一族は上野五郎左衛門吉長、井上長左衛門吉久、下山六郎左衛門吉国郎等には近藤四郎左絵門正清、同五郎正常、川島三郎五郎秀勝、
入野の城主横尾山城守国信一族には横尾新次左衛門信時、
渋柿の城からは薦田市助一族に三郎左衛門吉光、野田右京之助道安、これら同族の軍勢千八百余騎、
そのほか大保木山には寺川丹波守道住一族、黒瀬飛騨守道元両家の家族勢あわせて百二十騎、
是を加えて高尾の出城へ立籠った。
宇摩郡鍋、轟城両城の者共催促に従わず、今度は参戦しなかった。
又、これらの者は皆薦田の一族であり「この度参戦しない者は、一門の恥さらしである、きゃつらを軍の血祭にしてくれる」と言ったので、塩出、近藤が「一門之内にもそのような者が多い、そのような者共は何の用にも立たぬ、打捨ておかれよ」と言っておさまった、後に隆景が此所を所領した時、召出して追払った。
さて、西条には近藤長門守家次、其子彦七郎家親、徳永修理之輔清道、其子吉左衛門尉信道、黒岩に越知信濃守道能、早川に秦の備前守元宗、工藤兵部大輔祐友、名波江内蔵之助吉行、白石若狭守景之、丹兵部氏秀、久門甚五郎、都合六百七十余騎、
今度は必定討死なれば酒宴をして其身は最後の出立なれば花やかに鎧をまとい、家々の旗さし物を奇麗にして高峠に籠った。
石川勢高尾の城に籠る事
こうして、高尾の城には軍勢千八百余騎、寺川丹後守道住、黒瀬飛騨守の勢を合わせて百二十騎、都合千九百二十余騎、(長宗我部氏の援兵、高野義充率いる二百騎)夜は篝火を焚、中国勢を今やおそしと待懸たり、
中国勢は小早川隆景を大将として其勢三万余騎、来島、今治之沖より数百の兵船が漕っぱなしで、槍、長刀を抜連ねて、いざ高尾へと押寄せた。
(来島・今治の沖より平地嶋竜宮山の辺迄押寄たり。数百艘の兵船に鑓を立、長刀を立て並べている様は、海上たちまちに阿修羅城のごとし、隆景諸卒に向って下知されるには、「元来新居・宇摩の者共は、大胆でおそれをしらず、士民下部に至る迄長き脇差をはいて、こぶしを握り他人の下風に立間敷をむねとする、と聞いておる、軽はずみに敵の地へ乱れ入って犬死するでない、先ず高尾の本城を攻落せよ」とて ※「澄水記」より)
先陣は三村紀伊守忠清、植木孫左衛門秀長、庄野宮若丸為信、互の鬨の声は天にひびき山も崩れる如くであった。少しの間矢戦を行い、終に入乱れ、討ち討たれて戦った。
高尾の城より宇高左馬之進種光、矢野久之進信氏、野田新九郎道忠、今邑八郎兵衛貞宗、大西平内高政、何れも強勇の若武者共、隆景の先陣へ面もふらず切入って、当たるに任せて梨子割、どう切、車切、馬武者十騎切落し、勇み進んで戦けるが、力尽き乱軍の中に討死した。
ここに金子備後守の食客である真鍋孫太郎(家綱の子、兼綱のこと、金子の従兄弟)近国に隠れなき弓の名人であった。五町隔ても飛ぶ鳥又は提針を射落とす程の手並みであったので、「機会を待とう」と小柴垣へ忍びより、好敵を狙っていた。大将がだれかもわからなかったが、櫨匂ひの鎧に薄紫の母衣をかけ、城栗毛の馬に青葬かけ、采配を取りながら、手勢を下知して駆廻るものがあり、真鍋孫太郎是を見て「好敵なり」と高紐をはずし、かさねがさね藤の弓に十三束三つ状の矢を忘れる程にいき、ねらいすまして切って放てば誤った敵のむな板に射通し、血煙りを立て馬より真逆さまに落ちた、是を始として矢庭に敵十三人射倒した、寄手はこらえかねて「我先に」と退いた。そのうち矢種も尽いたので、大長刀をひらめかし、群がる敵の真中へ駆け入って蜘蛛手のように縄十文字に撫で斬り廻り、多勢の中に討死した。敵味方是を見て「天晴れ大剛の勇士也」とみな褒め称えた。
ここに哀なるは真鍋越後之助(之助=介。政綱のこと、金子の従兄弟)と言う者の子が二人おり、兄は孫九郎と言、弟は孫十郎と言て十六才と十三才とになるものがいた。父が戦場へ向かった時、不便に思い、村里に残し置いたが、父を慕って高尾の城へ来て父に言うには、「武士の子として民の中に残る事無念であります。何卒敵に駆合せ、いさぎよく討死つかまつりたい」と願ったので、父も仕方なく放っておいた。『栴檀は二葉より香ばしく紅は園に植ても隠れなし』というように、兄孫九郎敵の中へ切入、甲の立物に三枚柏付て白糸綴の鎧着たる武者と戦ったが、程なく一太刀受け、急所に傷を負い孫九郎は終に其場に討死した。弟孫十郎はるかに是を見て、父の越後之助へ右の様子告ければ、父はきっとにらみつけ、今此時に臨み、未練にも立帰り左様の事をいわんより、其場をさらず、「兄の敵を討ざるや」と大に怒りければ、孫十郎からからと打笑ひ敵の中へ取て返し、寄手の中を駆廻り終に彼武者に行会い、「兄の敵なり」といって吹返し、刀の切先にて柄も拳も通れよとぐつとつらぬきければ、思いひがけなく急所を突け、馬より真逆様に落ければ、孫十郎是幸ひととどめをさし、死したる者に目もやらず猶一歩も引かず戦ったが、終に行方は知れなくなった。父は孫十郎の後姿を見、涙をはらはらと流し、南無阿弥陀仏と諸共に跡を追って駆入って多勢を相手に働いて、敵を数多く討取り、乱軍の中に討死した。
味方は小勢なりと言共、必死と定めし事であるので、寄手攻あぐんでいるように見えたが、中国勢三百人ばかり奥より岩を伝い、つるをつかって、城の後ろより廻って、鉄砲数百挺雷電の如く放ちかけて攻めたので、兼て相図をした通り、大手の勢「すは時分はよきぞ懸れや者共」と無二無三取掛った、味方も「ここを最後ぞ」と防ぎ戦った。
されども寄手は大勢なれば新手を入れ替え入れ替え攻めたので、高橋美濃守種茂も必至と定め、敵の中へ駆け入り、四方八面に切て廻り、終に兜もおち、草摺りもちぎられて一所懸命に戦った。中国勢の内よりも赤革綴の鎧着たる武者、五郎と名乗って討て懸る、「心得たり」とすつと駆け寄り、引組、鞍の前輪に押付て、やがて首を掻き切った。寄手是を見て寄り付く者もなく、只遠矢にて射すくめようと雨あられの如く射かくれば、美濃守が身に立矢は蓑毛の如く、終に討ち死にされた。
大久保四郎兵衛時忠きっと思案し、「敵は多勢なり、味方小勢なり、常の如く掛合ては蟷螂が斧を以て龍車に刃向ふが如し」と本丸にとじ籠り、大石大木をなげおろし防ぎけり、是に打れ、死する者何百とも数を知らず、米田新左衛門進み出て、「情けないことよ味方の者共、死人を楯にして攻登れ」と真先に進みければ、味方是に気を得て又攻め登るを、大久保もはや落城とて鍋釜其外諸道具をなげかけて、又是にて防いだ。二度も大勢討ち取れたので、「心地よし」といって四郎兵衛が人々に言うには、「もはや如何程敵を討取ったとしても尽せぬ大軍なれば各々は一方を打破り落らるるだけは落ち給え、我は只今花々しく働いて討死せん」と、黒糸綴の鎧にあし鹿毛の馬に打またがり、三尺余りの太刀を真甲にかざし、「中国の鼠等に小身者の手並みを見せん」と死物狂ひに戦ひば、中国勢の中より卯花おどしの鎧着たる武者一騎、大久保を組んで手柄にせんと一文字に駆け来たり、馬をならべて素手で組み、互にえいえい声を出して揉合ったが、大久保の力が勝っており、押付けて首を掻き切った。大久保も是迄なりと馬上ながら腹かき切って自害した。
(ここに今井玄蕃兼綱(黒川美濃守通博の御旗下組衆)というものがいた、今日は最後の戦といい、小桜威の鎧に薄紅梅の母衣をかけ、多勢の中に駆け入って、一所懸命に戦った、そこに寄手五枚甲の鎧を着て、植木孫左衛門と名のって、大手を広げて飛び掛って、ぎしぎしと音を立てて組み合った。これを敵も味方も見物した。その様は相撲場のようであった、兼綱の力が勝り、植木を岸根へ押付け、首取って差上げたので、味方はとっと悦んだ。兼綱運の極みに、どこからともなく鉄砲に撃たれ、胸板に当たって、終に天正十三年に浮世のきずなを離れてける。死骸は灌木土中に埋め、ミ石をたたみ墓とした、今は榎木が生えて大木となっている。
さて、丹民部(久万郷笠松城主の丹民部守越智清光)は吹上六郎と引組、刺し違えてともに討ち死にした、其墓同所に有り。※「澄水記」より)
松木三河守、薦田吉清、野田左京之介、三人も今は是迄と見て、「さらば迷度の道連をこしらえん」と三人連にて敵の中へ切入、東西南北手当たり次第、馬歩武者のへだてなく切立なぎ立、汗びっしょりになって戦った。何れも名を得し強兵の勇をふるわしての戦なれば、たまらず、備えを崩して皆我先にと逃出す、内藤、山懸、蒲池、星野、綿貫、草井、羽仁、熊谷、口羽、「どうした味方の者共敵は三騎なるぞ、引かずに討取れ」といらだったけれども、崩れかかった味方の軍兵には少しも耳に入らず、右往左往に逃出す、去れ共大将隆景は少しもさわがず、旗本勢を繰出し散々に射させたので、鎧に立矢は蓑毛の如く、太刀傷数多負ければ、「今は叶わじ」と松木、薦田、野田、多勢の中に討死した。松木三河守嫡子新之丞、仙波彦次郎、渡辺九郎もつづいて敵の中へ切る入り、多勢の中に討死した。
(守將元宅のもとには里城主高橋美濃守の戦死をはじめ、悲報が相次いだ。城兵の多くを失い、自身も矢疵を負った元宅は、今はこれまでと思い定め、城中に火を放って果てたという。吉川元長が七月二十日、国許の周伯禅師に宛てた書状では、高尾城の落去について「十五日ヨリ仕寄・・・・諸軍手柄をふるい申付られ候間、十七日亥刻落去仕候、城勢金子備後守(元宅)を始として宗徒者六百余一時ニ打果し候」と述べているなお「赤木文書」によれば、小早川隆景の臣赤木忠房が金子元宅を討ち取ったとして、毛利輝元から感状にそえて「太刀一腰・馬一疋」を拝領している。)
そうしているうちに高尾の城も落ちたので、
(金子元宅の敗死と高尾城の陥落は、東予における長宗我部勢力の瓦解を意味した。それだけに戦況を注視していた長宗我部元親の衝撃は大きかった。元宅敗死の報に「なんとあわれなことか、二十日間ほども持ち堪えれば援軍を送って助けたものを、永劫金子の志を忘れるものかと、しきりに涙を流された」と悲嘆にくれたといわれる。そこには元宅を孤立無援のまま見殺しにしたことへの慚愧の想いが込められているが、この点と関連して「吉良物語」では、元親の用兵について「元親がもし洲之内(高峠城)を攻防の地に選んで、一二ケ所に城郭を構え、塁壁を高く築き、計画的に兵糧を入れ・・・・・・敵の虚をついて味方の機を助ければ、何年も落ちなかったであろうものを、数に劣るその兵卒を、いろいろなところへ分散させ、所々の小城に配分したのは・・・・・・もの凄い大軍勢に気持ちは呑まれ、肝を潰して、ひと支えもせずにほとんどは逃散してしまった、実に元親君臣ともに四国の小競合いをして、大軍の防ぎかたを知らなかったことが敗因である」と辛辣な批判を加えている。一方、秀吉のもとへは勝利の報せが相い次いだ。秀吉は小早川隆景・吉川元長に宛てた七月二十七日付けの書状で「今度与(予)州新広(居)郡に於いて一戦に及ばれ、金子始め多数討捕られ、首注文越置かれ候、誠に即時大利を得られるの儀、手柄之段申す計りなく候・・・・・・然れば宇摩郡内仏伝(殿)城(川之江城)先ず取巻るべく候、其子細は阿讃程近候条、諸事行等談合遂ぐべき儀これ在るの由候間、近道ニ尤も候」と隆景・元長の戦功をねんごろにたたえるとともに、次の主目標として讃岐国境ちかくの仏殿城の攻略を指示している。仏殿城を抜き、阿讃に在陣する羽柴秀長・秀次軍と連絡をはかり、前後から押し包んで白地城の元親本営を衝こうというものである。ともあれ、毛利輝元がその家臣に「高尾落去・・・両郡(新居・宇摩)残所なく退散候」と申し送ったように、高尾城の落城によって、東予における戦いは事実上終わった。高尾落城後、おびただしい戦死者を山麓の野々市原に葬った後、小早川隆景は自ら墓標を立てて「討つも又討たるるも皆夢なれや、はやくもさめり汝等が夢」と唱え、感慨に耽ったという。)
是より高峠へ押寄すべしと、其日吉祥寺の上にある往来の峰に登り、高峠を見渡し評定するに、「高尾の城はたやすく落ちない城であったが、周布郡戸田五郎を案内として、後ろの細道より忍ばせ不意を打ったので、早くも落城したが、今日はただ遠巻に致すべしとて次第を備えてくり出す、ところで高峠では決死の覚悟で待っていたが、敵が遠巻にして攻め寄せてこないので、どうしたのかと見合す内、降伏勧告の使者として佐古川重兵衛が参ったけれども、全く聞かず、それによって是非なくせめかかる所に、閑道より忍の者帰り、「只今虎竹丸を土佐へ落し候」旨、申し来たので、隆景聞て「早速のしらせ大義なり」とてほうびを与え、「此事何れへも申まじき」といって済ました。此事後に知れ渡り、隆景のふかき情の程に人民皆々帰伏した。
かくて高峠の軍兵思ひ残す事なしはなはだしく城に火をかけ、大手の扉をさっと開き、我先にと敵の中へ切入討死した。中でも徳永甚九郎、塩出善四郎、菅善兵衛、難波江藤太夫、岸源吾、東条五良四郎を先として鈴木能登守重永舎弟川端右衛門重正、其弟三郎太夫重勝、藤枝四郎重直、各々得物を取って敵の中へ切入、多勢の中にて討死した。
又、ここに真言院、保国寺の寺僧共を始めとしてニ郡の荒法師等数百人弔軍として参らんと言って、勇を好む荒法師等、何の思案もなく戦場へ出ていいかげんなことをしだした。寄手に笑われるほど異様であった。ここに得定寺東庵に任瑞として剛強の法師がいた。僧十人ばかりをしたがえ大石を軽々と引提、大勢の真中へ投懸投懸兜の真向よだれかけ当る所幸に打付打付働いた。是に打たれて死する者数を知らず、中国勢の中に楢崎六郎と言者、洗革の大鎧に五枚甲の緒をしめ、大手をひろげて任瑞に飛掛った。任瑞心得、素手で取っ組み、双方無類の大力なれば上になり下になり取っ組み合う有様は角力場の如く、打ちからんで見物した。任瑞の力が勝り、楢崎が総角をつまんで大地へどふと打つけた。投げられながら任瑞の両足かいてはね返し、直に任瑞おき上り、六郎を取って岸へ組伏せ、首を取らんとする所をおしつられながら鎧通しを抜いて任瑞の太股を突く、突かれて少しひるむ所をはね返し、取って押し伏せ、終に首を取った。任瑞は疲れていたので、六郎に討れてしまった。寄手是を見て悦び勇み「いらざる法師の腕立」と一度にどっと笑った。「其外の法師残らず討れ」と坊主は首を取られてしまった。
其後真言院は言に及はず、二郡の寺院社頭一宇も残らず放火した。中に一ノ宮八幡宮の社の森に落城の者たしかに十騎ばかり楯籠っていることを忍びの物見よりしらせ来る、隆景、これを聞いて四方を取り巻き、社頭へ火をかけ焼打にせんとすれ共、一の門より内には蜂の一群れ四方へうずまき寄付れず、是はと思案の中に大将隆景、垣をくずして蜂に火を焚付け、焼ければ社内惣乱せり直に火を懸け、終に焼失した。
天正十三年乙酉年七月二日の未明より八幡山の東の尾に戦を始めて、同十七日高尾落城、同二十八日高峠落城した。
(天正13年7月、毛利輝元、小早川隆景等は豊臣秀吉の命を受け四国討伐の軍を進め、新居浜川東の宇高、沢津の浜に上陸し、高橋氏の宇高不留土居城を攻め、続いて藤田山城守義雄の守る岡崎城(郷山)を攻略し、金子城に迫り、元宅の留守を守る弟の対馬守元春を攻めて陥落せしめた。)
(金子城の平和な時代でした。金子備後守を始め家臣一同が山上でお花見をしておりました。そして宴もたけなわになった頃、数人の若い者が山の中からイノシシの子を生け捕りにして、備後守の所へ持ってきて「殿、イノシシの子を捕らえてきました。子供ですから肉もやわらこうございます。さっそく料理をいたします」といいますと、居並ぶ家臣たちは、それはよいごちそうだと喜びました。ところが備後守は喜ぶと思いの外、顔を曇らせて「そのようなかわいそうなことはしないでくれ、どうかそのイノシシの子を助けてやってくれ、しかも余は亥年の生まれである。」というのでした。 そしてイノシシの子をもとの所へ逃してやりに行くのです。ちょうどその時四、五歳であった備後守の長女カネ姫も家来につれられていっしょについて行きました。命を助けてくれたイノシシの子は、木立の中に走って行きました。すると数匹の親、兄弟のイノシシが出迎えに来ており、いっしょになり、十歩行ってはあとをふり向き、二〇歩行ってはふり返りながら木立の中に帰って行きました。時は流れて天正十三年(1585)7月14日、秀吉の四国攻略に対して、土佐の長曽我部と同盟の義理のため、人は一代名は末代と、十倍に余る秀吉軍を相手に戦った金子城もついに落城、当時十六歳になった美しいカネ姫は、家来の守谷一族に守られて、金子山伝いに土佐へ落ちようとします。しかし敵が追いかけて来て、守谷一族も次から次へと斃れます。とうとうカネ姫一人になります、「あれは美しいカネ姫だ、早く捕まえろ」といいながら敵が追いかけて来ます。ああもうだめかと思ったその時、木立の中から数匹のイノシシが牙をむいて、敵におそいかかりました。思いもよらぬ出来事で、敵がとまどうあいだに姫は危機を脱して、ぶじ土佐へ逃げることができました。しかしイノシシたちはついに殺されてしまいました。土佐に逃れたカネ姫は、長曽我部氏に優遇され、また山之内家の時代になって、奥女中の取締り役となり、八〇歳の高齢を保ちました。またカネ姫が逃げる時、身に着けていた衣装や被っている笠が、木立に引っ掛かって取れなくなりました。それから、後世の人は現在のゴルフ場付近一帯の山を衣笠山と呼ぶようになったとのことです。また、カネ姫を守った守谷一族の御子孫の方たちは現在でも中萩町におり、栄えております。)
八月十六日金子、生子山破れけり、
(その昔、天正の陣の戦いでは、金子城の守りは固く、小早川軍がいくら攻めても落ちません。ついに小早川から勧降使がやって来ます。そして「あなたたちはこれだけ戦えば、もう武士としての面目は十分立ったと思います。この上戦えばお互いに死者は増えるばかりです。決して悪いようには致しませんから、ここで城を明け渡してください。」といいます。すると兄に代わって金子城を守っていた金子対馬守元春は、「おことばはたいへんありがたいが、私たちは土佐の長曽我部と同盟を結んでいる以上、武士として約束を破ることはできません。最後の一人になるまで戦います。」とキッパリ断り、そして勧降使に、このチヌの池のコイを御馳走して丁重に送り返しました。また、この時の戦は旧暦の七月で夏の盛りでした。傷ついた多くの武士たちは、チヌの池まで水を飲みに来て、ついに力尽きて死んで行きました。 実は、この池は当時はチヌの池とは呼んでいなかったのです。この池のそばで、傷ついた多くの人たちが死に、その血で池の水が真っ赤に染まりました。血で塗られた池、血塗の池と後世に呼ばれるようになったのです。またこの池にはカネ姫の金の櫛が落ちているのだとのいい伝えもあります。チヌの池は明治の最初までありましたが、鉄道がつくられる時に埋め立てられました。しかし、直径5メートルぐらいの源泉池が山麓のタケ藪の中に残っておりましたが、太平洋戦争中の農地の開発でついになくなりました。)
(金子城に残る八つの銭瓶。金子城が落城する時に、小判を八つの瓶に入れて埋めたとのいい伝えがあります。「朝日夕日受け、梅の古木の下にあり」といい伝えられております。昭和の初めに大阪からある人が来て、「実は毎晩のように夢を見ます。鎧を着た武士が出て来て、早く金子城に行き掘ってみよというのだ」とのことでした。何人かの協力者もでき、毎日山のあちこちを掘っていると、1メートルぐらいの卵形の大きな石が出てきました。この下にきっとある、と掘りましたところ、石の下から瓶が出てきました。さっそく開けてみると、小判ではなく、人の骨が出てきたのでした。さて八つの銭瓶はどこに埋まっているのでしょうか。)
(慈眼寺の歴史は古く、今より約580年の昔、応永十三年(1406年、足利時代)に開かれております。 当時は金子城のあった時代で、場所は城山の北側でした。天正十三年(四百年前、1885年)秀吉の四国攻略(天正の陣と呼ぶ)により金子城は落城し、その時の戦火に遭ってお寺も焼失してしまいました。口碑によれば当時、城主の金子備後守元宅は東予全軍の指揮を取るため高尾城(西条市氷見)に行き、兄に代わって金子城を守っていた弟の対馬守元春は、落城後、戦で亡くなった人達の菩提を弔うため仏門に入り奥州(福島県いわき市平)の長源寺に行き、卓眼和尚の許で修行を積み、後に故郷の地に帰って生き残りの者や戦死した人達の子孫と力を合わせ、この戦で亡くなった将士の菩提を弔うため、金子城の館跡に一寺を建立し、松樹林正法山慈眼寺と呼びました。時は元和年間と伝えられており、また関奄本徹和尚(かんえんほんてつおしょう)は対馬守元春の後身といわれております。その当時のお寺は今の様な規模でなく、現在の庫裏は本堂兼住居であり、屋根も茅葺でした。徳川時代の後半になって、本堂、玄関、拝殿と次々に建立されて今の様な規模のお寺となりました。次に宗派は焼失以前は臨済宗でした。現在の慈眼寺は親寺の長源寺と同じ曹洞宗です。本山は越前の永平寺と総持寺(横浜市鶴見)で、御本尊は聖観世音菩薩様をお祀りしております。本堂の奥のお位牌堂には、歴代の住職および城主の金子備後守、ならびに共に討死にをした将士のお位牌をお祀りしております。また本堂の裏には「天正の陣」の戦で亡くなった金子備後守と真鍋六人衆のお墓、岡崎城主藤田大隅守のお墓があります。また山の中腹には金子城家老=伊藤嘉右衛門の子孫の方達が建立した立派な供養塔もあります。かくの如く慈眼寺は古い歴史と、落城の哀話を秘めた由緒のある古刹であります。)
小早川隆景なおも残党を討たんといって、嶋山に二日休息して八月八日橘の郷におし寄せて城中を見れば、敵しずまり返って出てこない、隆景は戦なれたる大将なれば、「もし敵に計略もや有らん」と味方に下知してしばらく控えておったのを、敵は矢倉にあがって「中国の腰ぬけ武士、何の思慮有て猶予するや」とさまざまに悪口を言ったので、味方の若侍に矢田、池田、宮河、深野、勇猛の武士は我慢できず、「憎き敵の雑言かな一攻めせめて鼻あかせん」と北の谷より押かけたり、城中にも是を見て鷲津、桜井、野山、安蘇、小幡、金子対馬守子息源八、下山九郎大将として今や寄ると待ち構えていた、程なく塀際迄押寄せたので、城中より火矢を放ちかけ柴薪に火を付けて投おろしければ、先勢数多討れけり、隆景是を見て、「憎き敵のやつばらかな、軍門にさらさん」といって怒鳴ったので、是におそれて進む者壱人もなく、残軍是をみて「とても叶ぬ乱城なれば、犬死するより東生子山は格別に急な山なれば生子山へ立籠るより外なし」と評議して皆々其夜生子山迄落行けり、夜明て、寄手城中を見れば、敵壱人もなし、「さては何国へか落たる也」というところへ、物見の兵はせ帰りて、「生子山の城に二百騎余り籠り候」というので、「さらば生子山を責落さん」といって、三村、内藤、五百騎ばかり引連れ、生子山へと押よせたり、
(山上馬を洗うの奇計。生子山城のまわりを、うんかの如き小早川隆景の大軍が取り囲み満を持している。東の西谷川・西の芦谷川の水源を極め、城中、水がないのを確認し、わが大軍を前にわずか二〇〇の城兵がいかに対応するかを見守っている。ところがである。烈々たる晴天のもと、山上二の丸付近に一頭のウマが曳き出された。小早川の将兵は何をするのだろうと見ていると、二、三人の小者が姿を見せ、木桶に水を汲んで、ウマを洗い始めた。「あっ。」びっくりした小早川軍は瞳をこらしたが、ウマを洗う仕草は間断なく続けられた。すぐ水源の確認が行われ、物理的に城中に多量の水が無いのが確認された。「あれは何か。」小早川軍は判断に迷った。攻撃をかければ二、三日で落城するであろうが、それよりもわが戦略的判断の不確実さが悔やまれるのである。その時、城の下で、一人の老婆を小早川軍はつかまえた。老婆はその場へ引き据えられた。その時、小早川軍にひらめくものがあり、「あれは何か?」山上を指差した。問いただす足軽頭の右手には一条の利剣、左手にはひとつかみの小銭が鳴った。「あれは、あれはお米を流しております。」老婆はあえぎながら城を見上げた。「ふうん。」拍子抜けした足軽頭が鼻を鳴らした。「放してやれ。」小早川隆景は仁慈の武将であり、無益の殺生はしない。山上では米を流すしぐさをやめないので、すぐ攻撃がかけられ、しばらくして落城した。老婆のその後の消息は誰も知らない。)
ここ生子山は山高ふして大木逆枝をたれて馬の足も立ず、皆歩いてよじ登る、すでに塀際迄攻め寄せけるが、城中より大木、大石を投出す、是に討れ死する者、けが人数をしらず、隆景きっと思案して、「此城中々落べき城にあらず、火攻めにせん」と麓より焼草数多取よせ、東西の谷北の手より火をかけしに其日はわけて風強く吹ければ、この火は村々里々へ燃え移ってあたり一面に燃え上がり、炎さかんに天もこがさんばかり也、生子山の諸軍勢峰を伝って一人もけがなく退却した。されども火はいまだしずまらず、焼て死骸の焼ただれたのを、鷲や鷹がそれらの死骸をあらそう様は誠に卑しいことである。
(天正十三年(1585)、豊臣秀吉の命をうけた小早川隆景は、今治付近に上陸し西条市の現在の高峠・高尾城を攻め、七月十七日に西条市野々市原の決戦で、新居・宇摩の武将がほとんど戦死して、秀吉の四国征伐の勝利が明らかになった。その後小早川勢が東部の新居・宇摩に残る砦を攻め壊滅作戦の行動にでた。 二日間、下島山で休息した一隊と、海路宇高海岸に上陸した一隊は、一方は金子山砦を攻略して生子山砦の攻略をはじめた。上陸隊は垣生八幡神社の南西にあった富留土居砦を攻略し郷山の岡崎砦攻略にかかったといわれている。 富留土居砦の高橋丹後守の留守隊と岡崎山の藤田大隅守の軍勢は、要害堅固な生子山城に結集しようと南へ進んだのであるが、東田に入った時、生子山砦を攻略した一隊は上陸隊と合流のためか北進し、東田で敵味方が遭遇し決戦となり、新居勢はほとんど戦死、小早川勢にも多数の死傷者が出たといわれている。 決戦後は敵・味方のしかばねが東田の地域全般にわたって散乱していたといわれ、勝利の小早川勢が集結して槍や太刀を池で洗ったので、池の水が血で紅になったそうである。 それからその池の名を「血の池」と呼んでいたが、のちに縁起が悪いということで「猪の池」と名を変えたということである。猪の池は今では埋めたてられてしまっている。 今でも東田地域のあちらこちらに、当時の戦死者のものと思われる塚石が立っている。この話は、この地方では最後の悲惨な戦いとして語りつがれてきたものである。)
こうして隆景は浜手に宿陣して残党を探したが見つからず、是より周布郡に押寄せ、黒川を攻めんと心しずかにおし寄る道筋に死人の焼ただれたる匂いが一里前よりはなはだしく、軍兵鎧の袖を鼻に当てて通った。こうして隆景は時を置かずにおし寄せた。黒川の一族黒川弥八郎、戸田、今井、久枝、菅、近藤、緒方、長野、久米、杯籠城して寄る敵を待懸たり、程なく攻め寄せる所に、味方の内よりたれとは知らず、大声で城間近く諸軍勢が攻かかるのを、「やあやあ者共皆ひけやひけ、大石の謀有ぞ」と集まって騒ぎ立てたので、皆川原へと退却した。其夜黒川が言うには、今宵夜討して敵をおびきだし水攻の謀を用ひんと、石扶山ノ麓より流れる水を川上にてせき切り、狼煙を相図に切はなせとしめしおき、其夜、夜半に川原へおしかけ、鬨を作って大将黒川采配ふり立押寄せたので、「すわや夜討」と中国勢武具かため討て出、大将黒川のがすなとはげしき下知に、黒川勢叶ぬ引けと言うままに我先にとしりぞく所に勝に乗じた中国勢が押寄せ押寄せ攻登る。時分はよしと黒川勢相図の狼煙を上、城中よりは大勢「えいえい」と大声で攻めるように見せかけ、其声のまぎれにつれさせ、兼ねて謀ったとおり、川上を山と山とを積出し、川中へ一間四方の樋をさし、せき上置たる樋の中を放せば、両方崩れ一度にどっと水おしかかり、人馬共一つに浮くつしずんで押流され、夜分と言思ひがけない水なれば、大将隆景も仕方なく一二町流れたけれども、幸ひと柳の枝に取り付いたれども、柳根もげて又押流され、又も柳に取りついてようやく命を助り、残りの勢を集めて此うっぷんをはらさんと夜明けおそしと待居たり、其夜黒川勢つづいて討出ていれば、隆景をも討取れたものを、大水ゆえ流れたと思い、そのままに放っておいたのは、是非もなき事である。こうして夜もあければ、隆景残りの勢二百騎程に命じ、在家を破壊し焼立ければ、折節風はげしく終に城際迄焼上りければ、黒川勢は奥の城へと落ちていった。敵は是を知って急ぎ奥の城に待かけ、思ひ掛なく切てかかる、黒川勢「すわここにも敵有り」と又々逃出す、黒川弥八郎踏とどまって戦ひども、ついに叶わず討死す。黒川美濃守は奥の城にて切腹したとも、又山奥へ落失しとも其行方がわからず、
去れば隆景はニ郡を切慎め、太閤秀吉公へ上聞に達しければ、戦功を賞し、伊予を小早川に下された。
ここに松木三河守の家人大橋友右衛門尉、三河守が次男息女を瑞応寺長老に頼み、土州へ落ちていった、又鈴木重保、松木頼宣が子四才であったのを百姓の中に養育して居たのを、百姓共忍び忍びに尋ねてきては、昔の主人成といって尊敬した。鈴木は其時の戦で膝口を射られ程なく死んだ。
大橋は夫より中国へ赴いた。金子孫八郎終に病死した。下山九郎は松木左京と同道にて暫くうらやまに潜んで、後に又里へ出て住居した。
藤田左衛門高峠にて手柄をあらわして荒川山に居たが、横尾が郎等小野十良兵衛と言う者一所に住居しけるが、石川の家人飯尾甚三郎に討たれた。
其後領主なくて御料地と成、国治て萬民安棲、くまなく天下大平となった。
管理人による『天正陣実記』考察
『澄水記』の後に、これを参考に書かれた軍記物という説が正しいと思う。
特に、天正の陣における各地での戦の記述には、
誇張や、非現実的で物語的な内容も含まれるように見えるのである。
時系列も整合性のない箇所もあるように見え、
参考文書としてはいささか使用しづらいものである。