花房新兵衛

この人物には「花房親兵衛」と「花房新兵衛」と二つの書き方で名が語られている。

これは、「親」の異字体「亲」が「新」の音符(シン)であり、旧字体の写し間違いと思われる。

 

また、こちらの字「花房新兵衛」は、白石友治氏著「金子備後守元宅」や「萩藩閥閲録 巻四」にも使われている。

 

これらから、この頁では「花房新兵衛」をタイトルに、私の独自考察を記してみたい。

参考文献;閥閲録/考察;白石友治氏により語られた『馬淵口の戦い』

様々な記述に見られる「小早川秀包が馬淵において、土佐の援軍 花房新兵衛を討ち取った」という見解であるが、

これは、「閥閲録」を参考文献として、白石友治氏が自身の著「金子備後守元宅」の「金子城の激戦」の章で考察ならびに“間違いない”と、その考察を断言している。

 

1934年の書である「金子備後守元宅」より前の書で「花房新兵衛」の名が記されているのは、現時点で私が知る限り「閥閲録」だけであり(※他にありましたら是非ともご教示ください)、「馬淵口の戦い」を記している書は、「金子備後守元宅」の前にはない(※他にありましたら是非ともご教示ください)。

 

1977年の新居浜郷土史談会「郷土史談」第23号;白石正雄氏による「天正の陣前夜における伊予の動勢」によると、“元親からは金子援軍として弟の香宗我部恭親(※原文ママ)を送るべく申入れていたが、後程の書面では恭親(※原文ママ)怯懦の為め花房新兵衛を送ると申して来ている文書がある。”とされているが、当該文書は現時点で見つけることはできておらず、香宗我部親泰(※名を間違えていることも気になる)が怯懦したため花房新兵衛を代わりに出陣したと記しているのは「金子備後守元宅」内「金子元宅年譜」に()で記載がある。

 

さらに、『馬淵口の戦い』に関しても、白石友治氏が「金子備後守元宅」の「金子城の激戦」(※全文はリンクへ)に自身の考察として記してある。要は「宇摩郡」と「馬淵」を間違えたということである。

独自考察『馬淵口の戦い』はなかった;閥閲録の独自解読

様々な文献と書かれた時系列、そして「萩藩閥閲録」を読み解くに、私は『馬淵口の戦い』はなかったと考察する。花房新兵衛と小早川秀包が戦ったのは他の場所であったと考えるところである。

萩藩閥閲録 巻四 (天正十三)八月十六日 羽柴秀吉朱印状 小早川秀包 伊予宇摩郡戦功ヲ賞ス

上記の独自解読に記した通り「宇摩郡」は「馬淵」とはならないのであって、“大物見”を行ったのは小早川軍であり、「同州宇摩郡表」とは“宇摩郡の方面”また、“(西から東へ見て)宇摩郡の前面・正面”ということで、現 新居浜市全域が該当することとなる。

金子左近允入道とは出家した金子元春

上の小早川秀包の文章は、安国寺恵瓊を通じ、秀吉に自身の戦功を報告したものである。

その天正の陣の記述冒頭に、無名の将の名を記すことはまずもって考えられない。

 

さらには隆景が相(複数)攻めた城としていることからも、当然その城主、または守将の名で秀吉への報告に記すべき名のある武将の名を報告すると考えて良い。

 

かつ、自身の戦功を報告するのであるから、自身が攻めた対象を上に記すと考えるのも自然で、

“金子左近允入道”の金子城へ“其後惣勢攻懸り及落城候”という注進内容であると考察できる。

 

また、“同傳兵衛某”とはいうまでもなく金子元宅のことであり、

「金子か城」とは“金子が所有する・金子に所属する”城=高尾城であると考察できる。

 

よって、小早川秀包が攻めたのは金子左近允入道が籠城する城=“金子本城”であり、

金子か城(=高尾城)を通って、宇摩郡の方へ大物見を小早川軍が仕向けた時に、秀包は手勢を率いて真っ先に進んで、花房新兵衛と槍を合わせ、長曾我部の援兵五十騎の大半を討ち取り、金子本城中へ追い入れたと解読できる。

 

さて、この文章はいつ書かれたものであろうか。

天正十三年八月十六日の秀吉の朱印状を受けて、秀包が宇和郡にて三万五千石を拝領し、大津城に入った後である。

さらに、様々な天正の陣の毛利方勝利後の文書に、金子方の将を討ち捕えた旨の記載が散見されること、

金子元春が金子城落城後に、元宅の籠る高尾城に向かうも、すでに小早川方に包囲され入城できない間に高尾城が落城し、今治の大雄寺に入り、出家したと伝わることから、

独自考察であるが、金子元春は金子城落城後、高尾城に向かったものの小早川方に捕らえられ、大雄寺に幽閉の上出家させられ、その後伝わるように、陸奥の長源寺で修行したとあるのは、陸奥へ流されたと考えることもできるのではないだろうか。

 

つまり、秀包がこの文書を記した時には天正の陣に勝利しており、金子元春は出家させられており、この(敵将を捕らえた)ことを戦功の一つとして間接的に秀吉に報告する上でも“入道”と表現したものと考察するのである。

小早川秀包が花房新兵衛を討った場所は『馬淵口』ではなく『滝の宮口』

1)伊予宇摩郡戦功を賞す/宇摩郡粉骨之由/同州宇摩郡表え〜大物見候處

2)花房新兵衛ほか五十騎の大半を討ち金子城中へ追い入れ

3)その後、総勢で金子城へ攻め懸り落城させた

のである。

 

1)を読み解くに、秀吉への注進で「それどこ?」というような地方の一地名である『馬淵』を記すよりは、その地域を表す既知の郡名『宇摩郡』を記す方が、自身の戦功をアピールするには適していることは明らかであり、「馬淵を宇摩郡と間違える」ことは、注進という性質上、ありえないのであると考察する。また、地元である城方の文書ならまだしも、寄せ手であり、直前まで小牧・長久手の戦に秀吉に従い参戦しており、新居郡・金子城へはこの時に初めて来たと考えて良く、そのような秀包が、『馬淵』という一地名を取り上げることは無理があると考察できるのである。

 

また、“宇摩郡表”=宇摩郡の方を望める処というニュアンスだと読むと、実際に歩くと良く分かるが、東川を渡り、視界が開ける現 横水町辺りより先ではないだろうかと考察する。

 

2)で花房新兵衛とその一隊を討った後、城中へ追い入れたと記している。

城中へ追い入れたと認識するには、城が明確に見えており、そのどこかの門も見え、その中へ逃げ込む様子を確認していて記したものと解読する。

 

3)に2)が繋がるということ、そして“惣勢”と記しているということは、大物見の一隊と寄せ手の本隊が合流し、金子城へ総攻めを仕掛けたと読むことができ、金子城への寄せ手前線は北谷口方面であるから、1)で考察の現 横水町辺りから東川の東側を通り、寄せ手本隊の本陣(現 新居浜久保田郵便局周辺か)で合流するまでの間のどこかで、花房新兵衛らと遭遇したと独自考察する。

 

上記独自考察に該当する門は『滝の宮口』しかなく、その『滝の宮口』を守っていたのが花房新兵衛であるとも伝わることからも、この『滝の宮口』へ逃げ込める城外において、花房新兵衛は討たれたと私は考察する。

滝の宮口と政枝とお塚さん

平成四年三月発行の「金栄ふるさと誌」の「青木神社」の章に滝の宮口の戦いの記述がある。

 

一部抜粋すると、

“滝の宮口に陣取った金子勢に、高知の長曾我部元親の強力な援軍が加わり、〜省略〜滝の宮口から政枝、横水方面で激戦を繰り広げ、何百人の人がなくなったと伝える。

激戦の記録は、高知や広島、山口にわずかに残るが、残念ながらすべてが焼け落ちた新居浜には無い。

ただ、政枝部落のあちこちに「お塚さん」があり、その数の多いのに驚かされる。それらは、この天正の陣で亡くなった人たちのものだと伝え聞く。”

とある。

 

書かれている通り、天正の陣、特に新居浜での戦については、地元 新居浜にはその記録は無く、戦いの各詳細については書面としてはほぼ残ってはいないのである。

 

「金子備後守元宅」を編纂した白石友治氏もその自序において、“金子傳兵衛元宅公の〜省略〜事蹟の如き材料極めて乏しく、〜省略〜金子文書三十四通によって其の俤を窺知するに過ぎない。其所で之に毛利家、山内家の秘蔵文書を骨とし、等閑視すべからざる口碑傳説を参考としこれを濶色するに、巻末にある引用書を以てし間々わたくしの卑見を加えたのであります。”としている。

 

新居郡の各地に今も数多く残る「お塚さん」はこの天正の陣に関する口碑伝説の物的な拠り所と言って良い。

この「お塚さん」が政枝部落には特に多くあったとなれば、滝の宮口前面の金子城の外堀とも言える金子川(現 東川)を渡りすぐの政枝の地に於いて、戦いが繰り広げられたと考えられるのではないだろうか。

 

ここで参考とした「金栄ふるさと誌」の「青木神社」の章ほかの記述から、花房新兵衛と小早川秀包の槍合わせの独自考察を進めてみたい。

 

→【青木神社】独自考察へ