秦備前守
愛媛県中世城館跡分布調査報告書に、早川城(宝蓮寺城)として小さな連郭(縄張規模65m×25m)の城が掲載され、
文献としては「歴史探訪・早川城跡探索の記・澄水記他」、備考に「秦備前(中)守元治(宗)居城」とある。
一次史料は皆無と言って良いこの「秦備前(中)守元治(宗)」とはどのような武将であったか独自考察してみたい。
西條誌に記された「秦備前守」
(楢木村の項より引用)
前庄屋 村平
此者の家~中略~先祖は、早川の城主にて、秦備前守と称せしという。早川、今何れの地という事をしらず。然れども、河野軍記に、早川に秦備前守、工藤兵部、難波江内藏助、白石若狹守、丹民部、久門甚五郎、都合六百余騎なりという文見へ、秦氏代々遺言筆記集というものにも、天正十三乙酉七月、当処大いに乱れ、高峠始め数ヵ所一同落城、高祖秦備前守の居城早川も落つという事見へたり。~中略~かの遺言筆記というものによりて考うるに、落城の時、その家室、孩児を抱き、家来と合せて九人、他国に流浪し、乱静りて後、ここに帰り、武門を変えて農事を勤め、当村を墾闢し、代々庄屋役を勤む。~中略~
氷見村吉祥寺に、重宝記というものあり、その内に、子安観世音は、秦備前守殿守り本尊なり。子孫持ち伝え、当院へ納む。暦應院殿月山保休大居士とあり。備前守の法名なるべし。この人、この近邉の地頭にて有りし事の一証とすべし。故にここに贅す。
小松町誌に記された「秦備前守」
秦備前守の子、波多野次郎左衛門が小松原(旧小松藩の陣屋のあたり)に身を隠し、一柳氏の陣屋が出来るころには小松城下に移住したように書かれている。
家系図に記された「秦備前守」
秦備前守の家系図には長宗我部宮内小輔秦元親(長曽我部元親)と同姓となる長曽我部宮内小輔秦野備前守元宗との記述が残されてある。(Wikipediaより引用)
密教山 胎蔵院 吉祥寺に伝わる「秦備前守」
1585年の豊臣秀吉による四国攻めの兵火により焼失。1659年、檜木寺と合併して現在の場所に移され再興した。寺にはマリア観音という珍しい観音像(秘仏)が所蔵されており、これは長宗我部元親がイスパニア船サン・クェリッペ号の船長バードレから託されたもの。その後家臣の秦備前守が秘蔵したが、不幸が続いたため吉祥寺へ預けたとされる。
「秦備前守」は秦氏ではない(独自考察)
私は言われているような秦備前守が長宗我部家と同じ秦氏の末裔であるとの説は正しくないと考える。
その理由として、
1)古の帰化氏族「秦氏」の末裔とされる氏族は長宗我部氏のほか薩摩島津氏、赤松氏など60ほどあるとされているが、ストレートに『秦』姓を名乗る戦国武将は他におらず、秦備前守以前の系譜も伝わっていない。
2)元親と同族であることから親交が深かったと言われるが、その割に、天正の陣の土佐からの援軍の他の将(高野義光や片岡光綱、花房新兵衛等)と比較しても、あまりにも史料もなく、天正の陣後の動向から見ても同族のそれとはとても思えない(流浪・農事など)。戻る領地もなく、まるで住所不定であり、元からの長宗我部家臣とも思えない。
3)早川城があまりにも小規模であり、史料によっては近隣の大浜城などと混同されているほど存在感がない。先祖代々の居城というよりは天正の陣のための即席城、付け城程度に見える。
などのことを挙げる。
「秦備前守」は古の秦氏ではなく、天正の陣当時は「秦野氏」「波多野氏」の名乗りであったものと考えている。
「秦備前守」その姓と武家官位から見る独自考察
二次史料等に見られる姓は3つ。「秦」「秦野」「波多野」である。
そして官位は「備前守」。金子備後守や石川備中守、また羽柴筑前などもそうだが、その家や出自、関連する領地など、その人物に関連する地の武家官位を付ける傾向にあることから、備前国に関係のある人物であったのではないかと考察できる。
では備前国の「秦」「秦野」「波多野」で、長宗我部元親に繋がる可能性のある武家はどこか?
それは【能勢氏】であると独自考察するところである。
摂津国【能勢氏】~備前国【能勢氏】~長宗我部家臣【秦野氏】=「秦備前守」(独自考察)
私の独自考察を結論から言うと、
能勢頼次の一族=【秦野備前守元宗】ー 子「秦備前守」
である。
では以下に摂津国の能勢頼次にさかのぼって私の独自考察を解説する。
摂津国 能勢氏の備前国落ち
天正六年十月 荒木村重、信長に反旗を翻す。消極的ながら同じく反信長の能勢衆は攻撃を受ける。
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天正七年、荒木村重の反乱鎮圧。
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天正八年九月、能勢頼道を塩川氏が謀殺、能勢に攻め入り、能勢頼道の弟頼次が丸山城で防戦するも陥落。
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天正九年、能勢頼次、為楽山(のちの妙見山※能勢の妙見は能勢頼次が元和三年(一六一七)に日蓮宗の日乾上人を招聘して、多田満中の鎮宅霊符を法華勧請して名を妙見大菩薩と改めて菩薩像を祀ったのが能勢妙見の始まりであると見える(『能勢町史』)。能勢氏キリスト教から日蓮宗への改宗。)に移り抵抗。
(参考)https://www.myoken.org/history/
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天正十年六月、本能寺の変。能勢氏は明智方として山崎の合戦後、能勢一帯に侵攻を受け焼き払われ、
能勢頼次は「三宅助十郎」(※一説には兄の能勢頼長が「三宅助十郎」として諸国を回ったとも)と名を変え、数名の家臣と共に敵地宇喜多領ながら南北朝時代に領地を得た一族「能勢頼吉」を頼り備前国へ落ち延び、日蓮宗妙勝寺(※鐘楼の南手に頼吉の墓(五輪塔)がある。)で再興の時を待つ。
(参考)https://www.myoken.org/history/
能勢氏と波多野氏一族の系譜
能勢頼次が落ち延びた備前国能勢氏。その能勢頼吉の弟または実子であるという【金光(備前守)宗高】。宗高が養子に入った金光家の養父が【金光備前(守)】は備前国 波多野一族の松田氏に属していた。
ちなみに、能勢頼次の母は波多野秀親(丹波国)の娘である。
能勢頼長
能勢頼次の兄とされる能勢頼長。上記の荒木村重の反乱に伴う抵抗を経て、共に明智光秀の幕下となったことで、後の本能寺の変・山崎の合戦敗戦により、備前国へ落ち延びることとなるのであるが、
そのまま備前国で宇喜多幕下となった頼次と異なり、頼長は諸国を回ったとも伝わり、『能勢町史』では「諸説さまざまあるが、いずれにしてもたしかな証拠はない」としている。
《独自考察》能勢頼長=秦野備前守元宗
ここからはまったく史料に拠らない完全な私の独自考察である。
能勢頼次と共に備前国へ落ち延びた能勢頼長は、明智光秀の復讐を期し、秀吉包囲網の一角であり、かつ、明智家との縁が深かった長宗我部元親の元に参じる。その際に改名し、自らの母方の姓、また、備前国で受け入れてくれた能勢一族金光氏にも繋がる「波多野」姓から【秦野】と名乗り、金光(備前守)宗高から一字【宗】の字をもらい、さらには【備前守】も同じく僭称して、「秦野備前守頼(?)宗」などと名乗り土佐へ。
元明智家幕下で、復讐を期して参じたこの者に、長宗我部元親は偏諱を与え、【秦野備前守元宗】と名乗ることになるのである。(※能勢町史等の言う、能勢頼長が改名して諸国を回ったという説にもある意味合致している)
その後、いざ秀吉による四国征伐を目前に控え、直前に秀吉に降った毛利家が攻め込んでくる伊予国新居郡が主戦場になることが自明の理であることから元親は、【秦野備前守元宗】にも新居郡への援軍を命じる。
土佐から新居郡へ向かった【秦野備前守元宗】は、早川の地に陣所を設け(早川城)、天正の陣に参戦。7月17日、野々市原の戦いで討死。
西條誌に記された通り【秦野備前守元宗】の妻子一族は他国(土佐)へ流浪し、文禄五年のサン=フェリペ号事件まで滞在。長宗我部元親より【秦野備前守元宗】の供養としてマリア観音像を下され、【秦野備前守元宗】討死の地西條へ戻り、帰農した。
(追記)御子孫の方からの情報提供
ありがたくも西条市在住の御子孫の方より情報提供を賜り、これまでの私の独自考察に確信めいたものを持たせて頂くことができました。
この方の家の家系図では、
天正13年7月17日 没 1585年 早川城主 長曽我部宮内少将 秦野備前守 元宗 永寿院殿蓮月清薫大居士(暦応院殿月山保休大居士)とのことで、西條誌の記述とも合致すると共に、高尾城落城、野々市原の戦いで討死したこともわかる。
心より感謝申し上げると共に、以下に頂いた情報を元にしてさらに進めることができた独自考察を記すこととする。
なぜ元親から「秦備前守」にサン=フェリペ号のマリア観音像が下されたか
文禄五年(1596年)は天正の陣の11年後であるので、ここでの「秦備前守」は【秦野備前守元宗】の子息である。あくまで独自考察であるが、天正の陣の敗戦から土佐へ逃げ延びた【秦野備前守元宗】の子息は、完全に長宗我部家の家臣としての名に改めるため、「秦野」姓から“野”の一字を取り、長宗我部氏が始祖であるとする「秦」姓を名乗ったとも考えられなくもない。
能勢頼長=秦野備前守元宗 ー 子「秦備前守」
であると独自考察している。
さて、ではなぜこの「秦備前守」に元親から、サン=フェリペ号のマリア観音像が下されたか?
それは供養の対象者である【秦野備前守元宗】もその子「秦備前守」も“キリシタン”であったと考えるのが普通であろうと思う。
ただ1点、独自考察として否定しておくと、“秦氏の祖は景教徒ユダヤ人であるから、マリア観音像を下されたのであり、純粋な秦氏であるとの根拠である”ということはあり得ないということである。なぜなら景教では基本的にマリアに神性を持たず、聖像崇拝にも反対であるからである。もし「秦備前守」が真の秦氏であれば、マリア観音像を本尊として大切にするはずがないのである。
では「能勢氏」はどうか。
摂津の大名和田氏・高山氏らはキリシタンとして知られ、また、改宗強要に対する“能勢のいやいや法華”の言葉が伝えるように、摂津、能勢はキリシタンが多く、能勢頼次の時代から使用された家紋の一つは十字架を思わせる『切竹矢筈十字』であり、後に頼次が日蓮宗へ“改宗”したことからも、その兄である「能勢頼長」も同じくキリシタンであったとしても不思議ではない。
そしてなんと!西条市在住の「秦備前守」の御子孫の方の家紋も『切竹矢筈十字』であるとのこと!
この情報から、私の独自考察であった【能勢頼長=秦野備前守元宗 ー 子「秦備前守」】が繋がったのである。
さらにはこの方の家が代々祀っておられるのが“天神様”であり、また、同家の旧庄屋裏に“秦家の阿弥陀堂(阿弥陀如来像)があるとのこと。
天神信仰は、キリスト教の神が天神に通じるところから、隠れキリシタンの天神信仰は多く、さらには阿弥陀堂も、宮城の阿弥陀堂(マリア観音堂)、大分の国宝の阿弥陀堂で知られる富貴寺の十字架、名古屋の阿弥陀像がある栄国寺のマリア観音など、共に隠れキリシタンと深い関わりの事例が全国にも存在するものであり、「秦備前守」がキリシタンであったことの裏付けに近いものであると私は独自考察するところである。