真鍋孫太郎兼綱

一次史料のその名が残る真鍋孫太郎

天正の陣、高尾城の戦いにおいて、一次史料にその名が残る新居・宇摩の武将(土佐援軍は除く)は、

金子一族(傳兵衛〈元宅〉および左近允入道)の他にはただ一人、この【真鍋孫太郎】だけである。

[萩藩閥閲録]六九 児玉四郎右衛門

今度与州表隆景様御渡海、〜中略〜 殊高尾之城御取詰之刻、〜中略〜 彼城被切崩之時、真鍋孫太郎被討捕之、御高名之段無比類存候、〜中略〜 

十月四日 通平

児玉四郎右衛門尉殿

と、口羽通平から、児玉元言に宛てた書状で、その武功を讃えており、

児玉元言真鍋孫太郎を討ち取った」ことが明記されている。

阿波国微古雑抄に書かれた「眞邊近江」

大正二年(1913)刊の「阿波国微古雑抄」は、

徳島県小松島出身の古典学者小杉榲邨が幕末から明治にかけて筆写・抄録した自筆稿本の阿波国の部。

その巻六「昔阿波物語」に「眞邊近江」として取り上げられている。

 

“つわものは人皆おそれをなし候、元亀元年に、伊予国より眞邊近江と申す人、奉公の望し越され候を、篠原駟雲の御抱えなられ候、勝て分別あり、弓は三人張りを引く也、当国に眞邊流と申すは、その人の弟子の流れ也”

 

とある。