【考察】金子元宅はなぜ天正の陣に臨んだのか

天正の陣開戦前の高峠評定。

 

「さても身分の低い武士ほど浅ましい者はいない。昨日は長宗我部に手を下げ、今日は小早川に腰を屈め、土佐の人質を振り捨て、他人に尻口を見せる事もまったく是非もない事である。(一同には関係のない事だが私は、)所詮眉をひそめて生きるよりは、討ち死にして名を後の代に顕すよりほかにあろうはずがない。」(澄水記より)

 

この発言により、天下の軍である関白 羽柴秀吉の先陣である毛利の小早川・吉川両川の軍に降ることなく、迎え討つことに決したことは、現代においても賛否両論あるところである。

 

では何故、長宗我部元親とも、小早川隆景とも使僧による交流もあり、情報の重要性を認識し、秀吉が天下人になることも、元親が敗れることも予測しており、天下を測る才もあった金子元宅が、天正の陣に臨んだのか。

 

強いものに従き、家を守ることが、当時の国人領主として当たり前のことであり、江戸時代の武士道思想もない、この時代に何故、長宗我部に義理立てし、戦略的要衝である高尾城ならびに金子城に、新居・宇摩の全軍を動員して籠城したのか。

『血と地』を後世に継ぐ戦い

金子元宅は、新居・宇摩の地を愛し、四国を愛し、子供達を愛した武将であったと思う。

未来を見据えた考えを持った人物であったとも思うのである。

 

澄水記に記された里伝、高尾城落城前に、高橋美濃守大宅政輝の子息で民部大輔政武に託した言葉。

 

「この度の合戦はもとより必勝を覚悟したものではない。じっくりと今の世の有様を思うに、長宗我部元親であっても秀吉公に敵対できるものではなかろう。終には秀吉公が天下人となられるであろう。そうすれば元親も滅亡するか、そうでなくても降参するであろう。その時にいたっては、我らの今度の武功を誰が称美するであろうか。であれば無駄な生害とは思うものの、この場に至って諸傍輩に対し、後世の人も嘲るところもあるであろうから私はいずれにせよ(皆と)同じくこの場所で自害する。その方は、知っている事の詳細を命ある間、なんとかこの場を忍び出て我の後世も弔い、名字だけでも子孫へ伝えてくれ」

 

これを紐解くと解る。

 

まずは『地』

 

新居・宇摩内、四国内での争いであれば、

どちらについても『地』は守られる。

 

しかし、小早川についても、秀吉についても『地』は守られないからである。

 

『地』とは、物理的な土地だけでなく、脈々と人々に繋がる『地』の歴史が途切れることになるからである。

 

もう一つは『血』

 

自身の子等ばかりでなく、将たちの子息、主家の子息、その全てを生きながらえさせるための布陣であったのだ。

真鍋政綱の子、孫九郎、孫十郎の悲話はこの裏返しである。

 

実際に、自身の子等を土佐に送り、松木安村の子息はじめ、皆の子息は主戦場ではなく、各支城に配し、主家の石川虎竹はじめ、諸将の奥方や子息を土佐へ逃れさせる手はずを整えていた。

 

 全てはこのための布陣、このための戦、それが元宅が考えた天正の陣の戦略であろう。

 

また、この意図に諸将皆納得して従い、野々市原に玉砕することも厭わず、『血と地』を守るという志に多くの賛同が得られたと考えるのである。

高尾城落城から金子元宅自刃までの時系列(独自考察)

(七月十七日夜〜明け方)

1;金子元宅、高尾城に火を放ち、高橋政輝の子息や土佐の高野義光らと「小石垣を伝い」に城の背後、黒瀬方面から土佐街道方面へ立ち出る(徒歩2時間半程度)

 

 

2;高峠城から石川虎竹が落ちる。市倉で装束を整え出立。

 

3;高峠城兵が城に火を放ち、野々市原東の楢の木へ馳せかける。

 

4;明け方、桜峠で石川虎竹が高峠城が燃え落ちるのを見る。

 

(七月十八日早朝)

5;伊東近江守祐晴石川虎竹を迎え、土居平へ。

 

6;金子元宅、石川虎竹が無事に伊東と合流したことを確認し、高野義光に土佐への道案内を託し、伊東近江守祐晴には高橋美濃守の遺児達を託す。

 

7;高尾の残兵と、高峠の守兵が同時に野々市原へ討って出る。

※金子元宅は事前に図り、石川虎竹を無事に逃がすため、陽動と足留めの効果を狙い、諸将に命じたものと考える。ある程度戦った後には、おのおの逃れるように指示していたと思われる。実際に、金子孫八郎家綱、松木三河守安村らは野々市原を離れている。

 

8;野々市原にて残兵を討ち払った寄せ手は、余勢を駆って高峠を占拠、一部が大将 石川虎竹の首を上げんと、土佐街道を追う。

 

9;金子元宅と従臣34名がしんがりを務め、追手を食い止めるも、力尽き、河ケ平にて自刃。

(※隆景の手勢のなかにいた赤木蔵人丞が討ち取ったという史料も残されている(赤木文書・二四七七・二四八〇)『今度高尾落去付金子備後守被討捕御粉骨令祝着、仍太刀一腰馬一疋並種進上候、猶志道左馬助可申候、恐々謹言 八月六日 輝元 花押 赤木蔵人殿 御陣所』)

 

10;寄せ手の追手は、千町周辺の砦に土佐の援軍が到着していることを確認し、金子元宅の亡骸を確認した上で深追いを止め、撤退。

河ヶ平 花の木さん碑文(抜粋)

(正面)

天正十三年七月、豊臣秀吉四国征伐ノ折、郷土軍ノ大将金子城主備後守元宅ハ、小早川隆景、吉川元長ノ軍ト高尾城乃野々市原ニ合戦セシガ、衆寡適セズ遂ニソノ従者三十四人ト後ヨリ追ヒ来レルニ人ハ此地ニ於イテ自刃ス 茲ニ碑ヲタテ忠魂ヲ弔フ

                                                     伊予郡双海町  ○○ ○○

 

(裏面)

此ノ墓ハ 三十四人ヲ同穴ニ埋メタル一坪程ノモノト、他ニ二人ノ墓ガアリ、河ケ平上野七四郎ノ祖先コレラヲ祀リオリシガ、昭和ニ至り七四郎ニ間四面ノ堂ヲタテ、魂を鎮メタルモノ也

 

                                                      昭和三十六年十一月吉日

金子元宅の望み(管理人による考察)

私(管理人)は、金子元宅の終焉の地は河ヶ平(花の木さん)であると思う。

彼の最後の仕事は、石川虎竹を無事に土佐に逃がすことであった。

その役目を全うし、自刃した。

 

開戦前に、土佐方へ妻子や将達の子息の庇護を依頼していることが、

元宅がこの天正の陣に勝利し得ない認識を持って臨んだことの一つの証となると思うのである。

勝利を確信していれば、新居・宇摩の山城などへの避難で済むからである。

 

金子元宅は、天正の陣に臨み、『血と地』を未来に遺すことを考え、

秀吉の天下の軍勢 毛利の小早川・吉川 両川に対峙したのであろう。

 

現に、どうであろう。

丸山城を開城し、寝返った黒川広隆は、毛利方の文書には登場するが、四国方の文書にはその名はない。

しかも、黒川通貫(広隆)は、天正の陣後、天正十四年九月八日に桑村郡より小早川軍として九州へ出陣、

正岡系系図によれば、黒川五右衛門(通貫=広隆)討死とある。

郷土に名が残らず、敵の軍に従い、九州で討死したかもしれないのである。

 

また、長宗我部家も同様であった。これは史実に有名であるので、ここでは語るまい。

 

金子元宅とその一族、そして、新居・宇摩両郡の将たちは、

郷土において、里伝として様々な物語が語り継がれ、その子息たちは生き永らえ、

現代に残る文献においても、郷土の英雄としてその名を刻み、

私たちの心を熱くさせ、またその生き方を示してくれているように思うのである。

 

『後世に自らの“名”と“足跡”を遺せ』と。

 

これこそ、金子元宅が天正の陣後、そして自らの死後の未来へ望んだ通りのことではなかったか。

 

私(管理人)は、郷土の歴史『天正の陣』を紐解くにあたり、

このような考察を持って、伝えていきたいのである。