天正の陣 伝
天正の陣に関する一次史料に、新居郡・宇摩郡のもの、ひいては伊予国としてのものも存在しない。
主な一次史料は寄せ手である毛利家、羽柴家のもので、少々、降伏した長宗我部家のものが存在するだけなのである。
そこで、天正の陣の戦場となった新居郡側のものを中心に、各方面の二次史料の記述を読み解き、
一次史料を幹としながらも、二次史料で枝葉をつけることにより、私(管理人)の独自考察を膨らませてみたい。
天正の陣の主な二次史料
軍記物を中心とした天正の陣の記述がある近世の主な二次史料(近代以降は除く)は下記の通りである。
成立元号 | 西暦 | 二次史料名 | 著者 | 備考 |
不明 | 不明 | 吉良物語 | 真西堂如淵 | -1588? 長宗我部家臣で臨済宗僧。吉良親貞の庶子 親実の庶兄。 |
不明 | 不明 | 安西軍策 | (岩国の人) | 「二宮俊実覚書」「森脇春方覚書」を基本資料に広家存命中成立か |
寛永八年 | 1631 | 元親記 | 高島正重 | 元親の三十三回忌に著。 |
不明 | 不明 | 長元記 | 立石助兵衛 | 元親記の抄記とも。南路志第6巻はこれを転記か。 |
不明 | 不明 | 予陽河野家譜 | 不明 | 成立過程不明。天正十五年に春禅院が土居了庵らに命じたか? |
天和四年 | 1684 | 澄水記 | 尊清法師 | 法蓮寺第三世住職。高峠落城以来今年迄相当百年忌也。 |
不明 | 不明 | 天正陣実記 | 不明 | 澄水記にさらに物語性を高めたような内容か? |
元禄九年 | 1696 | 石岡社 私記 | 玉井対馬守忠信 | 玉井対馬守忠信(のち忠幸)宮司の口述か著。八幡大神官私記。西條誌に「信を取るに足らざる草紙」としながらも多引用。 |
不明 | 不明 | 吉田物語 | 杉岡就房 | 1624-1706 萩藩士 宝庫預役 毛利家の古文書・諸記録を閲覧。 |
元禄十五年 | 1702 | 土佐軍記 | 小畠邦器 | (四国軍記)著者か?元禄三年の写本が存在、成立は更に古い? |
宝永五年 | 1708 | 土佐物語 | 吉田孝世 | 吉田重俊の6代後子孫で土佐藩馬廻記録方。 |
不明 | 不明 | 土佐遺語 | 谷重遠 | 1663-1718 土佐の儒学者、神道家。 |
宝永七年 | 1710 | 予陽郡郷俚諺集 | 奥平貞虎 | 伊予松山藩の家老奥平貞守の子。江戸家老。地理誌として編纂。 |
正徳四年 | 1714 | 南海治乱記 | 香西成資 | 讃岐出身の兵法家。寛文三年(1663)より讃岐にて稿を起こす。 |
享保二年 | 1717 | 陰徳太平記 | 香川正矩 | 岩国藩家老。1660年に執筆半ばで逝去。次男 景継が補足。 |
享保十年 | 1725 | 土佐国蠹簡集 | 奥宮正明 | 土佐藩士。検見役や代官をつとめ、儒学者泰山に師事。 |
文化元年 | 1804 | 吉川家譜 | ||
文化年間 | 不明 | 伊予二名集 | 岡田通載 | 伊予の地誌。多数の名所和歌を収めた。 |
天保十三年 | 1842 | 西條誌稿本 | 日野和照 | 西條藩儒学者。 |
万延元年 | 1860 | 小松邑志 | 近藤範序 | 小松藩士。周布・新居両郡17か村の記述14巻。 |
不明 | 不明 | 和田氏先祖由緒書 | 不明 | ※大川村誌に掲載。一次史料「長宗我部元親書状」との関連。 |
天正の陣の近世二次史料成立背景と内容傾向の独自考察
古文書、特に二次史料に関しては、その著者の生まれた家や時代背景、所属等により、同じく天正の陣について書かれたものでも、その表現には異なる側面、異なる視点、さらには著者の感情が反映されている。
よって、複数の二次史料を俯瞰し、総合的に考察を行わなければ、偏った解釈になってしまうのである。
また、二次史料では地理的矛盾が多く見られる。中でも上陸地点についての矛盾が起きる要因だが、二次史料の著者が現地で聞き込みを行なったり、里伝を伝え聞いたりしたものを記していると考えると、当時の土着民の大半は、自分の村から出ることのない者が大半であったろうから、小早川軍の軍船が移動しながら各地に上陸して行ったその先の土地土地にとっての敵軍の上陸地点はその地になるわけである。里伝はその土地に伝わる固有の物語であるため、全体を俯瞰して時系列を組み立てを行う必要があるのである。
ここでは天正の陣について書かれた各二次史料の内、より詳細に書かれたものについて、その成立背景を分析の上、複合的、総合的に、天正の陣についての考察を深めてみたい。
吉良物語
成立年は不明だが、原作者の真西堂如淵は、上の表の通りで、長宗我部盛親家督相続問題で、弟の親実が自害させられると、それに連座して殺害されている。(※親実自害の年には諸説あり、天正十七年九月以降天正十九年一月以前とされており、如淵が殺害された年も、比江山親興切腹の天正十六年十月以降で、天正十九年一月以前と想定される)
吉良物語はこの真西堂如淵が天正年間に書き残したものに、秋月山人が潤色したものである。
ということは、吉良物語に書かれた天正の陣についての記述についてのポイントは、
- 短期間(1585年以降3年〜5年間程度)かつ激動の時期(九州出兵、長宗我部信親戦死、盛親相続問題)に書かれ
- 長宗我部家に大きな恨みを背景とし
- (天正の陣に関しては)現地調査や里伝聴取を行えず、戦地から逃れてきた将士やその家族から聞いた話が元
といったことが挙げられると考察する。
(天正の陣についての記述内容抜粋考察)
- ・(読下文)中国より毛利輝元・小早川隆景・吉川元春四万五千騎、伊輿の新間に着岸す。
- →(考察)隆景以外は誤りであり、毛利一族3家の当主名を挙げていること、兵数も毛利家全兵力相当を記していることから、“毛利全軍で攻め込んできた”と伝え聞いた程度で書いていることが読み解ける。
- よって毛利軍着岸の地名「新間」についてもだれかに伝え聞いたものであろう。私(管理人)は、金子本城に籠り、土佐へ逃げ延びた金子元宅の妻子から伝え聞いたものと独自考察する。毛利軍上陸地点の考察は別途記すが、金子本城に籠もっていた者にとっての毛利軍上陸地点は「新居の浜」(=大江浦)であり、それを伝え聞いた地名を知らない著者が「にいのはま」を「にいま」と聞き違え、文字にした際にこう表記したものと独自考察する。
- 後の「四国軍記」にもほぼ同様の記述(こちらの兵数は三万余騎だが)がある。
- ・(読下文)輝元・隆景は大軍を以って金子が城を取り巻き、降参せよ。命をば助けんと云いければ、金子聞いて、それがしは元親の家人にてはなけれども、向きに一昧の誓約をなせり、士の一言は身命より重し。〜中略〜金子は自殺しぬ。元親聞いて、あな無慙や。二十日とも堪えば援兵を遣わして助けんものを。いずれの世にか金子が志を忘れんと、しきりに落涙をせられける。〜中略(孫子や劉備、新田義貞を前例に、元親の備えを挙げ)〜元親がもし一州の中にて防守の地を選んで〜中略(戦っていれば)〜大軍の防ぎ様を知らざるこそ理なれ。
- →(考察)この武士道的表現は後に秋月山人が潤色したものであろうが、澄水記等にある「高峠評定」などの創作との繋がりも感じられ、軍記物特有の物語であり、金子元宅の(主戦論者的)正確ならざる評価にも繋がってしまっているように考察できるのである。要は、吉良物語として長宗我部元親批判展開の一要素としての、比較美談としての記述であると独自考察する。
予陽河野家譜
校訂者の景浦勉氏は、予陽河野家譜は成立過程不明で、天正十五年に春禅院の命で土居了庵らが編集に着手したとしても、相当な時間と労力を要したであろう。と見解を記している。
この春禅院とは、天遊永寿との法名もあり、宍戸隆家と五龍局(毛利元就の娘)の長女で、五龍局の弟・小早川隆景が養父と推定される。来島村上氏当主・村上通康の妻。伊予国河野氏最後の当主・河野通直(牛福・伊予守)の生母と推定される。(Wikipediaより)
天正十五年とは、河野通直の没年であり、その死についても様々な憶測がされている。
このような複雑な背景を持つ春禅院の命で、河野通直に従って安芸国竹原へ供をした土居了庵等(「えひめの記憶」より)に依頼したとなれば、通直の死により断絶した河野家の家譜を遺してくれとの命に、その郎等が尽力したのかもしれない。
しかしながら、予陽河野家譜は、史料的に見て必ずしも正しいとは言えない(「えひめの記憶」より)ともされており、天正の陣の新居郡の戦の記述は、「澄水記」に酷似した内容でありながらも、寄せ手の進軍経路など、一次史料と比較しても明らかに誤りである内容も多く、とても当事者もしくは当事者や現地への調査聞き取りをもって書かれたものとは言えず、私(管理人)の独自考察としては、その大半は「澄水記」も含む様々な軍記物などを集めて独自に編集し直した、寄せ集め的な書ではないかと感じている。であるから、“成立年不明=そもそも成立していない”ということではないだろうか。
(天正の陣についての記述内容抜粋考察)※「澄水記」と重なる部分は除く。
- ・(読下文)七月十二日隆景軍族二列に分け新居浜宇高へ打ち上げ
- →(考察)七月十二日は一次史料からみると、竹子の山陣から高尾城取巻の間で、宇野識弘軍忠状の翌日であり、まず日付が誤りである。また、隆景が兵を二つに分け、新居浜(大江浦)と宇高へそれぞれ渡海初上陸してから、高尾城を攻めるのは、わざわざ敵地奥に上陸し、行き過ぎた!とばかりに引き返して軍を行うことになり、名将小早川隆景にして、敵地を事前に調べず、戦術も立てず、安易に兵を二手に分けるなどと、このようなミスをおかすとはとても考えられないのである。
- ・(読下文)〜八幡山に於いて之を支え、隆景兵を進め之を撃ち取り、すぐに高尾城を囲む〜中略〜各力戦死、十二日から十七日に至るまで雌雄決せず
- →(考察)一次史料より、八幡山での初戦ならびに高尾城を囲んだのは七月十四日であり、二日間ずれ誤りがある。
- ・(その他)本書では、徳定寺 任瑞法師を討ったのも、丹民部を討ったのも、吹上六郎とされており、また、金子孫八郎の家人の名が、白須賀次郎兵衛(白須賀という苗字は伊予にはあまり居ない?)とされており、それぞれ「澄水記」と異なる。
陰徳記
著者の香川正矩(1613-1660)は、岩国領香川氏当主であり、吉川氏の正当性を訴えるべく陰徳記を著したとされる。家継の子で、家継の兄 家景の養子。祖父は春継(1545-1619)であることから、天正の陣については、直接話を聞くことが可能であったと考えられる。
本書を編纂した正矩は執筆半ばで逝去。次男の景継が「陰徳太平記」として完成させ、1717年に出版した。
陰徳記ならびに陰徳太平記ともに読んでみると、天正の陣に関する記述は同内容であることから、香川正矩が記したものと考えてよく、
また、香川正矩は陰徳記執筆にあたり、既成の文書・記録(※安西軍策を基本資料としている)のみに頼らず、自ら古老を訪ね、また諸国へ物書きを派遣して資料を集めたといわれており(陰徳記・解説より)、天正の陣の当事者に直接話を聞くこともあったと考えられ、軍記物の中では史実に近い内容であると考察できる。
(天正の陣についての記述内容抜粋考察)
- ・(読下文)輝元朝臣は吉川蔵人頭経言を相具して備後国三原迄打出給へば、小早川左衛門佐隆景・吉川治部少輔元長は中国八州の勢二万余騎を引率して、伊予の八町へ押し渡り給う
- →(考察)安西軍策との差異として、“毛利輝元と吉川経言(広家)が三原に打出された”と追記されている(※下の“吉川元長風気煩”の箇所と併せて参照)。兵数に関しては、私(管理人)の独自考察としても少し多い記述だが、それほど大きな誇張とは思えない。また、一次史料にある上陸地点「今張津へ着岸」とまさに合致する現今治市八町のことと考えられ、今張津から蒼社川を越えてすぐの少し内陸地である。ここで、吉川元長と小早川隆景の対談(最初の軍議)が行われたと考えて良いのではないだろうか。
- ・(読下文)中国勢天正十三年七月二日より、黒河太郎三郎広隆の家城丸山を取り囲みければ、金子是を見て黒河を助けようと三十騎ばかり物見の様に差し出しけるを、隆景朝臣の手により早急に雄々しい者共を七十余騎我先にと懸かるを見て、敵わずと思ったのであろう駒引き返し逃げ行くを、余すな漏らすなと追いかけるが、〜中略〜黒河いかにも叶うべくも無いまま、甲を脱ぎ、旗を巻いて降人に成り、城を渡して先陣を申し請け進みければ、ただちに彼の家城へは香川左衛門尉広景を入り置かれた。
- →(考察)丸山城降伏の詳細(※安西軍策では黒川太郎三郎ヵ城とのみある)、黒川広隆の名は、私(管理人)が知る限り、ここに初めて登場(※安西軍策では、黒川太郎三郎としている)するのである。香川広景は、香川正矩の祖父 春継の兄である。もちろん本書は軍記物であり、まして著者の一族の話である。厳しい目で見て、ここに誇張表現が無いといっては嘘になろう。しかしながら、まったくのでっち上げ話とも考えにくいのではないだろうか。日付に間違いは見られるものの、正矩が直接広景に話を聞いていたとしても年代的にありえない話でも無いのであるし、たとえ直接聞いていなくとも、広景の弟で祖父の春継から聞いた(もしくは春継も天正の陣に参戦していたかもしれない)としても不思議ではないのである。
- さらには、金子と隆景の兵のやり取りの一文は、一次史料にある隆景の初一戦と読んでも時系列的には合致するとも考察できる。もしそうならば、この“三十騎”が、もしくは、これは物見の様とあるように金子のブラフであり、この間に、“長宗我部人数” (≒片岡光綱)による“後巻”奇襲を小早川本陣(八幡山)にかけたとも独自考察できるのである。
- なお、後の「吉田物語」の天正の陣の記述ははほぼこの陰徳記を引用しているが、“黒川太郎は城を明け渡し土佐へ罷帰ったので、吉川殿より香川左衛門尉を籠め置かれ候”とあり、黒川と土佐の援軍が混同されていたり、香川広景が小早川隆景ではなく吉川元長の命で動いている(香川春継と誤認か?)などの齟齬が見られる。
- ・(読下文)同十三日金子か城を取り囲まれ、尾頸へは吉川勢攻め上がったところに、敵三百ばかり打ち出しけるを〜中略〜追い立て上中へせり合い、そのまま仕寄を付け帰り、鹿垣を結渡し、敵を一人も漏らさずと攻め近づいた。
- →(考察)一次史料によると、“金子か城”=金子が籠る高尾城を取り囲んだのは七月十四日で、その当日に先述の丸山城が落ちている。吉川元長が丸山城落城の余勢を駆って高尾城へ攻めかかろうとしたのも七月十四日、そして翌十五日から仕寄、鹿垣などに取り掛かっていることから、陰徳記における天正の陣の記述は、その内容は史実に近いものながら、ことごとく日付の間違いがある。他の古文書(二次史料)もそうだが、後世に当時を振り返って語られた内容を取材して書にしているという性質から、そもそも二次史料の日付については、その大半が不正確であるとして良いのではないだろうか。
- ・(読下文)先陣は益田越中守・熊谷豊前守、その次は〜中略〜、麓には小早川勢木梨・楢崎を先陣として、〜中略〜隙間なく陣を取った
- →(考察)益田越中守は藤兼であるが、ここではその子 益田元祥であろう。熊谷豊前守元直と年齢も近く、先陣ということから見ても隠居の藤兼(56歳)とは考えにくい。また、この記述から白石友治氏の金子城の激戦の説に齟齬(この二将はこの日高尾城攻めの先陣であり、金子本城攻めの先陣を同日に務めることは不可能)があることが分かる。
- ・(読下文)吉川元長同十四日彼城を一時乗り破らんとあったが、今一度仕寄よせて攻め落とすべきと軍評定一決して、同十五日城乗と定められける処に、敵堪え兼ねて十四日の宵の六ツ時城中より帰、鹿垣を切り破り、乗り越えて切り抜けけるを、吉川勢此所において敵ことごとく切り伏せた。
- →(考察)この一文、前半は一次史料「吉川家文書」通りである。しかし、後半が同一次史料と異なる。ということは、この文書を見て記した訳ではなく、だれかから直接聞いた話と、この文書の内容が酷似していたということだろうか。であれば、尚更、この一次史料が史実である裏付けにもなろう。(※後半部分の相違は、誤った記述ではなく、一次史料にある“諸軍手柄をふるい”の部分の詳細なのではないかと独自考察する)
- ・(読下文)其の中に敵三百ばかりは深山へかかり、土佐の国へ逃げ入れけり。〜中略〜(寄せ手)我先にと城へ乗りけるに、〜中略〜井上又右衛門懸合い、金子が右筆の頸を打ちかかりける処に〜中略〜城主金子は三村紀伊守が手の者とも落人数多く討取りける中に、彼の頸も有りけるとかや。〜中略〜頸数已上五百余也けり。
- →(考察)一次史料にある“土州境に到”の詳細がこの一文に現れていると考察できる。さらには、私(管理人)の独自考察である金子元宅の最期についての裏付けが、ここにも記されているのである。なお、“三村紀伊守の手の者”=赤木蔵人忠房であり、三村紀伊守親成が三村本家に反し、毛利氏に残った際、共に本家三村氏と絶って毛利氏に属したのが赤木忠房である。三村親成の娘は赤木忠房の妻でもある。
- さらに、城方は皆討ち取られ、その首は五百以上であったとしているが、前の「安西軍策」、後の「吉田物語」共に、三百余としており、差異がある。一次史料では吉川元長が六百余打果と言っていることから、それぞれ見解が異なるか。
- ・(読下文)同十六日新井(居)の柴尾へ七里陣を替えられたり。これを見て石川・帆柱両城共に無異儀明渡ければ、ここに暫く在陣し給う処に、吉川元長は俄に風気煩給ければ、舎弟蔵人頭経言朝臣を三原より喚び越し給、名代として差し出し、我が身は保養のために芸陽にこそ帰り給けれ。
- →(考察)基本資料とした安西軍策には、陣替先である「柴尾」への距離“七里”の記述と、吉川元長の風気、吉川経言(後の広家)と代わり、帰国した旨の記述はない。
- まず前者の“七里”という距離であるが、一次史料に記された吉川元長の陣替先「苅[ ] クチ」と時系列が混同してしまっていると考察する。(※石岡八幡から宇高・垣生周辺までが当時の道で24km程度で6〜7里である)
- そして、後者の吉川経言(広家)名代の記述は、陰徳記の性質上、岩国藩初代である吉川広家をここで登場させておきたかった(※秀吉に寵愛され、天正の陣に参陣した小早川元総(秀包)に引けを取らせないためか)のではないかと考察する。
- また、「柴尾」「石川城」「帆柱城」とはどこか?についての独自考察を行いたい。まず時系列だが、高尾城落城の翌日に行われた敵地での陣替であることや、上記「苅[ ]クチ」への陣替は7月27日である(一次史料より)から、16日の陣替とは十日以上離れている。また、慎重な小早川隆景の戦術を考慮しても、それほど遠距離の陣替でないことは想像に難くない。また、一次史料で独自考察を行った通り、「山陣」を計画していたであろうことからも、新居郡内で石岡八幡から新居-宇摩境の中間に位置する山地であろうという仮説が立つ。
- さらに高尾城が落ちたのを見て城を明け渡したという(※「ことは、現在の西条市域であろうことも仮説できる。それらを踏まえ、
- 「帆柱城」は、帆柱;帆船の帆を張るための柱。マスト。という意味から海沿いの城、帆船が停泊している城で西条市域の城といえば、塩出氏の「江淵城」ではないかと独自考察する(※西條誌 朔日市村の項 江淵の記述にも“小舟数艘”や“堀涯”と見える)。(※白石友治氏は「金子備後守元宅」で「帆柱城」は「名古城」であると述べている。だが、二次史料の文脈的にはこれは明らかに誤認であると考察できる)
- 「石川城」は、石川氏居城と考えられ、候補は「高峠城」(※「南海治乱記」には石川刑部の居城としているが、先に成立の「陰徳記」にはただ石川城とある。高尾城を金子ヵ城などと表記するのと同様に高峠城を石川ヵ城として表記したものか)の他、八堂城(石川越前守)か天神山城(石川美濃守)もあり、前述の帆柱城が江淵城と仮定すると、海路も繋がる「天神山城」ではないかとも独自考察できる(※石川城=高峠城とすると、“七里陣を替えられたり。これを見て石川・帆柱両城共に無異儀明渡しけれ”では時系列が合わない。大軍が陣替をしているのを眼下にのんびり見て通り過ぎたのちに明渡したというのであろうか)
- 「柴尾」は、上記二城を仮説した上で、新居郡の地名から、現在の地元でもその地名が呼称される島山=「柴山」が最も近く、また、古の歌にも“〜島山の尾の上のさくら〜”とあり、“尾”の意味(尾根)からも、“柴山の尾”→「柴尾」であろうと独自考察する。これらのことから「柴尾」は、西福寺境内にある「笹山城」のこと、あるいは「笹山城」の場所が吉川元長の陣幕を張った場所で、兵たちはその周辺に野営したものと考察する。愛媛県行政資料 (藩政期・明治期) 絵図をみると、此地は単独の小山ではなく、北へ伸びる尾根になっていることが分かる。これも上の独自考察を裏付ける。なお、陣替え時、打ち捨てられたため、城の詳細が伝わらなかったものと考察する。(※ちなみに漢字として見ても「柴」と「笹」も同義として使われることがある。漁法名で“笹伏”=“漬柴”または“伏柴”などである)
- 天神山から下島山にかけてはまさに、現在の新居浜市域へ進軍するための「山陣」を張るには最適な地であることは明らかであり、かつ、小早川軍が制海権を有し、情報伝達と兵站に活用したであろう海路と並行して進軍する戦術から見ても、この上ない地であると独自考察する。さらには、“ここに暫く在陣”とあるのは、独自考察で8日間ほどあり、この期間に一次史料での秀吉の指摘にあるように、“新居郡で打ち廻っていた”と考察できるのである。
土佐軍記
「土佐軍記」=「四国軍記」か?四国軍記には小畠邦器校とあるが著者であろうと考えられるともいわれ、元禄三年の写本が存在することから、成立はさらに古いかとも言われる。(『えひめの記憶』より)
(天正の陣についての記述内容抜粋考察)
- ・(読下文)毛利輝元伊豫之金子か城え押し寄せ日数十一日に攻め落とす男女撫で斬りにする
- →(考察)四国軍記にもほぼ同内容の記述がある。寄せ手の将も、日数も、適当と言わざるを得ない内容である。
土佐物語
土佐物語の著者、吉田孝世は、土佐藩の馬廻り記録方。吉田重俊の6代後にあたる子孫。
土佐物語は各所に文飾が多くみられることから近世の学者である谷泰山(重遠)から内容に信頼性を疑われており、現代の研究者の間でも歴史資料としての評価は高くないとされる。(Wikipediaより)
天正の陣の記述は『金子陣の事』として巻第十四にある。
(天正の陣についての記述内容抜粋考察)
- ・(読下文)毛利輝元、三萬餘騎を引率し、豫州新間に着き、金子の城を攻傾けんと議す。
- →(考察)吉良物語、土佐軍記、四国軍記同様に、上陸地点を“新間”としている。また、毛利輝元が兵を率いて攻め来ている点も同様で、間違った内容と言わざるを得ない。「吉良物語」以降の土佐軍記物は、「吉良物語」から引用しているのであろうと考察でき、間違いが引き継がれてしまっている。
- ・(読下文)此由聞こえしかば金子備後守元宅〜中略(リンク先241コマ参照)〜討死を一篇に思設けてぞいたりける。〜中略〜自害し、その名計りを残しける。(終)
- →(考察)この一文こそまさに、武士道的精神を物語るものであり、武士道のなかった戦国時代の記述ではなく、江戸時代になされた文飾であることが明白であると言える。誰かから伝え聞くこともほぼ不可能な内容であり、『金子陣の事』の大半は完全な脚色であると考察できる。
- ・(読下文)斯る所に岡豊勢二百餘騎、元親の下知として合力に馳加わる。
- →(考察)この記述は、吉良物語には見られず、むしろ相反している。土佐の二次史料に登場するのは、この記述と、下の土佐遺語の片岡姓の箇所、そして、成立不明だが「片岡盛衰記」に151名の名と、その他従兵二百余人との記述がある。一次史料には”長宗我部人数”とあり、援軍があったことは間違いないが、その規模がどの程度であったのかは、こうした信頼性の高くない史料によらざるを得ないのである。
土佐遺語
(天正の陣についての記述内容抜粋考察)
- ・(読下文)片岡姓〜中略〜親光豫州金子に戦い死す。黒岩に葬る。
- →(考察)片岡援軍に関する最も古い文献か?ここで“金子に戦い”とあるために、金子城へ片岡援軍があったと認識されたか。私の独自考察では“金子陣に戦い”とすべきであったろうと考察する。
- ※土佐遺語には、四国征伐の記事はあるが、天正の陣に関する記述は省かれている。
南海治乱記
南海治乱記(リンク先174コマ)の著者、香西成資については、香西史(リンク先270コマ参照)に詳しく記されている。
「寛永九年(1632)に讃岐国香西の佐料にて生まれた。成童のころから江戸へ出て、小早川式部能久に従い軍学を学び、後、小幡勘兵衛景憲の門に入り、甲州流軍学を極め、二十八才(萬治二年)にして免許を得た。有名な北条氏長、山鹿素行と同門である。寛文年中筑前に至り、年三十二才のとき、福岡藩主に招聘され、天和二年仲春福岡藩士黒田光之より禄三百石を給わり、演武堂を建て門人を教養した。〜中略〜かつて成資讃岐にあるとき、植松左兵尉資信、三谷彦兵衛尉景近、片山是右衛門尉久利等の武士及び、田所治郎右衛門、公文孫三郎等の上古より相続してきた百姓につき、戦国時代の史譚を聞けり。これらの人々は皆、元亀の生まれにして、寛永、正保の頃まで生存し、天正年中迄のことをよく知悉せるをもって、成資はこれらの人々より聞きし談話を総合し、戦国時代の史実を研究し、寛文三年(1663)三月上旬讃岐において稿を起こし、後九州に在りて五十余年遂に脱稿し、その中間を掲げて上梓し、これを南海治乱記(十七冊)とす。その余冊を筺中に蔵せしを享保二年の秋より冬に至りてこれを校正し、その大なるを南海通記(二十冊)とし、小なるを老父夜話とす。その南海通記は成資が郷国のために最も意を致して著述せるものと云り。〜中略〜成資の歿年は未詳なれども、享保六年齢九十才までは存命なりしことは成資の書簡により明瞭なれば、おそらくはそれ以後九十余才にて歿せしならん。」とある。
天正の陣については、「毛利家軍将出陣豫州記」(リンク先174コマ)として記している。
(天正の陣についての記述内容抜粋考察)
- ・(読下文)秀吉公四國征伐に附て毛利家の軍兵三万餘人吉川元長小早川隆景を大将軍として伊豫國へ発向せしむ輝元は二万人を卒して備後國三原の津に陣を居へ玉ふ隆景元長豫州新居郡天満浦に着陣し同郡の住人金子傳兵衛が籠たる高尾の城を攻らるる
- →(考察)本書の成立背景によるものか、命令系統、毛利軍の配備、軍勢の数は客観的で、史実に近いものと独自考察する。隆景元長の上陸地点を新居郡天満浦としているところも讃岐國の著者ならびに上記「香西史」の記述通り、讃岐の人々に直接聞いていることから、仏殿城攻めの最終段階で再上陸したと私(管理人)が独自考察する新居郡天満浦(※「伊豫二名集」(リンク先93コマ)宇摩郡天神社(現天満神社)の記述に“徃古は新居郡に属すと云う”とある)と聞き及んだのであろうと独自考察する。よって、高尾城攻めとの時系列には齟齬が生じており、前後している。
- ・(読下文)金子は其素河野氏の臣として〜中略〜元親に和親をなし國家の安寧を成しむ
- →(考察)元親が大西上野介を以って金子元宅を調略した件が語られていることも、讃岐側の文書である特徴ではないだろうか。当時の土地の人からの口伝である、地理的要因が大いに影響し、俯瞰的ではなく局地的な内容になることは当然であろうと考察する。
- ・(読下文)今毛利家の大軍を受けて進退爰に窮りぬ金子吾が士卒に向て曰〜中略〜必勇悍の働きをなし名を後世に挙ぐべし
- →(考察)同様の武士道的内容は伊予新居郡の「澄水記」にも、土佐の「土佐物語」にも、そして讃岐の「南海治乱記」にも見られる。全て軍記物特有の時代背景による脚色であることは間違いなく、これらが書かれた時代に、金子元宅を敗軍の将でありながら武士道模範的キャラクターに仕立てたことは、まさに江戸時代の時代背景が投影されていると考察するところである。
- ・(読下文)逞兵五百餘人を以って少しも不撓籠城す寄手小早川隆景は大手口の山下より攻寄する吉川元長は山の手に回り尾傳に攻寄する然して吉川の手より山形木工之助矢合の鏑を射る夫より両敵互に矢鉄砲を打合こと雨の如し吉川元長より小早川殿の陣に有ける臺無の大筒を取寄せ尾筋の高みに仕懸させ放ちかくれば塀の手を打破り城内へ打入数人死亡す翌日両手より攻入終日攻戦ひ十四日の夜に入終に乗っ取る
- →(考察)