一次史料からみる天正の陣

ここではまず、当事者がその時々に遺した手紙、文書、日記等のみから、天正の陣の期間と事象、今後の独自考察の背景となる文言等を取り上げてみる。

天正の陣 期間

天正の陣を一次史料のみからみると、その期間は実質、

 

天正十三年(1585)七月五日〜八月六日までの31日間

(※6,7月は小の月、8月は閏8月)

 

と考察する。

〈 和暦 〉 〈 事象 〉 〈 一次史料 〉
6月27日 小早川隆景等予州表へ渡海 萩藩閥閲録 巻102ノ2
※間6日間(~6/29|7/1~) 吉川(元長)・宍戸(元孝)・福原(元俊)以下急ぎ乗船 同上
7月5日 吉川元長、今張津に着岸し隆景と対談 大日本古文書家わけ九別集七六
※間5日間(7/6~10) ※竹子と申すところに初めに山陣 大日本古文書家わけ九別集七六
7月11日 宇野識弘、桑村郡軍功を小早川に軍忠状 小松邑志「宇野文書」
※間2日間(7/12-13) ※(竹子の山陣から陣替して)又中陣し 大日本古文書家わけ九別集七六
7月14日

高尾城と丸山を包囲し、丸山城は当日に落去

長曾我部援軍が後巻きに攻め来り初戦し討果

大日本古文書家わけ九別集七六

萩藩閥閲録 巻10ノ2

7月15日より(~7/17)

仕寄・返り鹿垣・詰口等設置し、諸軍攻城戦

大日本古文書家わけ九別集七六

7月17日亥刻(20~24時)

高尾城落城、金子備後守始六百余を一時に討果

大日本古文書家わけ九別集七六

7月18日

石川城金子本城他十ヶ所退散、土州境に到り、陣替

萩藩閥閲録

7月23日 長曾我部陣所までの間、土州衆との戦いに援軍要請

萩藩閥閲録 巻20

7月27日

仏殿城から六里中間の苅□□クチと云う所に着陣

秀吉より新居郡で打廻らず先に仏殿城攻めをと命令

大日本古文書家わけ九別集七六

吉川家文書(愛媛県史資料2474)

※五日中(7/28~8/3) ※本陣近くで後詰し、5日中には陣替えする

大日本古文書家わけ九別集七六

8月6日

秀長隆景に仏殿表陣替を祝し元親の降伏許す旨を報

小早川家文書

吉川元長自筆書状

『大日本古文書 家わけ九 別集』[西禅永興両寺旧蔵文書]

七六 吉川元長自筆書状 (別紙)(周伯恵雍自筆)

「元長公御手跡也」

何と言っても先ずはこの書状である。

 

周伯恵雍と吉川元長は歳も近く、その交友関係は深いものであったとされている。

恵雍宛ての元長書状においては、私的な内容だけでなく「大笑大笑」「一笑一笑」など、気安い表現も多く見られるということで、

二人の関係から見て、この書状には脚色も誇大表現も不要であったろうと想像できる。

また、“気安い表現”という点も、解読する上でのポイントの一つであると考える。

萩藩閥閲録 巻102 冷泉五郎

小早川隆景書状

この書状から読み解けるのは、小早川隆景が先陣・先鋒として6月27日に渡海し、その後、吉川元長が今張津に着岸した7月5日まで8日間(※6月は小の月)を要し、毛利の主要な軍勢が予州に渡海を完了したことと、

 

なにより特筆すべきは、別途「天正の陣とは」の頁で取り上げる、寄せ手の進軍経路、各地での陣張地の独自考察のベースとなる“山陣覚悟”という小早川隆景の出陣前の言葉が記されていることである。

萩藩閥閲録 巻10ノ2 (129)

小早川家文書

こちらの羽柴秀次から小早川隆景への書状を読み解くと、「御手前被初一戦」とあり、天正の陣における小早川隆景の初戦は「爲後詰敵催人差向」との戦闘であったことが言えるのである。

 

また、この書状と同日(七月廿一日)に書かれた羽柴秀吉から安国寺恵瓊宛の書状と、同じく小早川隆景、吉川元長宛の書状も同内容にて、元の報告書状(小早川隆景から安国寺恵瓊を通して秀吉へ送られたもの)が同じものであることは容易に想像できる。

 

これらの書状には、「去十四日之書状、於大坂到来、加被見候、」また「去十四日之書状、今日廿一至大坂到来、令被見候、」とそれぞれにあり、

また、「与州内金子城被取巻候處、爲後巻長曾我部人数出候處、隆景元長以覚悟被及一戦、即時切崩、数多被討捕、両城被乗捕由、」また、「与州内金子城被取巻候之處、爲後巻長曾我部人数出候處、即被及一戦、切崩、数多被討果、両城被乗捕之由、」とある。

(※小早川家文書;愛媛県史資料編古代中世 二四六八・二四六九・二四七〇)

 

これらの一次史料をもって、白石友治著『金子備後守元宅』で、白石氏は新居浜の金子本城落城日を7月14日と断定し、また、長曾我部からの援軍である片岡光綱が来て討ち死にしたのも新居浜の金子本城であると根拠付けており、その後に書かれた各文書では比較的この白石氏の断定を引いているのであるが、

 

同じく一次史料である上の『吉川元長自筆書状』では、7月14日には間違いなく吉川元長と小早川隆景は、高尾城と丸山城を取巻いており、7月14日取巻当日に丸山城が落城し、そのまま高尾城へも攻め込もうと吉川元長が小早川隆景に申し出たものの却下され、そこから攻城戦準備を行い、7月15日〜17日は「諸軍手柄をふるい」17日の夜に高尾城を落城させたことは間違いないことであり、

 

7月17日夜の高尾城落城の“響を以って”(その後)金子本城も退散したと明記してあるのである。

 

さらに別の一次史料でも、七月廿日に毛利輝元から末次元康に宛てた書状(萩藩閥閲録)では、「〜略〜 去る十七日金子城高尾之儀被切崩、敵千余打捕之由、以其響石川城其外十ヶ所に余落去候由、〜略〜」ともあり、寄せ手方からすると【金子城=高尾之儀】、要は金子元宅が籠る高尾城の略で高尾城のことを“金子城”といい、新居浜の金子城は“金子本城”といっているのである。

 

一次史料を複合的に読み解くと、白石氏による「金子城の激戦」の根拠・断定は成り立たないこととなる。

これが私(管理人)の独自考察である。

(天正十三)八月十六日 羽柴秀吉朱印状 小早川秀包 伊予宇摩郡戦功ヲ賞ス

萩藩閥閲録 巻四

この小早川秀包の手控えは、武将;花房新兵衛の頁でも取り上げているのでそちらの考察も参照願いたい。

 

さてここでは、この文書から、高尾城落城後から陣替え、そして新居郡内で“打ち廻って”いる辺りまでの経緯を考察してみたい。

 

上の項でも取り上げた、七月廿日に毛利輝元から末次元康に宛てた書状(萩藩閥閲録)では、「〜略〜 去る十七日金子城高尾之儀被切崩、敵千余打捕之由、以其響石川城其外十ヶ所に余落去候由、土州境に到、一昨日陣替之由候、〜略〜」とあり、七月十七日の高尾城落城(“六百余を一時に討果”=野々市原の戦いであろう)の翌日、七月十八日(=七月廿日の一昨日)には、「土州境に到」「陣替」したとある。

 

この“六百余を一時に討果”した後に「土州境に到」ることに関しては、金子元宅の思い 独自考察の頁で述べているので、そちらも参照願いたい。

要は、毛利の軍勢にとっては、「土州境に到」=“石川虎竹の土佐落ち”ならびに“大将 金子元宅の討死”=“新居・宇摩二郡の将士との合戦終結”ということであると考察するところであり、

 

これをもって、次なる目標である「仏殿城」攻略へ向けた「陣替」を行ったと考察するのである。

 

この「陣替」に先立ち行われたのが、この文書にある「大物見」であり、「金子か城より」の一文は、その時点の陣であった“八幡山”から、(金子が所有した)高尾城下を経由して、「同州宇摩郡表え」「大物見」した際の戦功を注進していると考察できるのである。

 

ここから読み解けるのは、

・小早川軍による「大物見」ならびに、小早川秀包と花房新兵衛の戦闘は「陣替」当日となる、《七月十八日》であり、

・複数の他の文書に記されている“高尾城落城の響による金子本城他複数城の退散(※退散とは、将士の妻子による土佐落ちであると考察)”の通りであったにも関わらず、慎重な隆景が「大物見」したところ、金子城下で土佐援軍 花房新兵衛の五十騎と遭遇し、花房新兵衛は討ち取ったものの、残兵が城中へ逃げ入ったこともあり、「惣勢」が揃うのを待ち、「金子城え攻懸り及落城」させたと考察できる。ここからも隆景の慎重さがうかがえるのである。

 

では、ここに記されている“金子本城への総攻め・落城”は何日の出来事であったのであろうか。

 

二つ上の項「吉川元長自筆書状」で考察の通り、七月廿七日の書状時点で、宇高の“苅ヶ坪クチ”に着陣したというのであれば、七月十八日から廿七日の間の10日間に渡り、現 新居浜市域において“打ち廻って”いたことになる。

 

別頁で取り上げるが、現 新居浜市域の神社仏閣に集中して、尽く焼き討ちされていることから考察しても、また、金子城と宇高の位置を考察しても、

この10日間のうち、前半(※七月廿三日の桂平二・兼重元続へ毛利輝元が宛てた、予州への援軍要請の書状があることから、七月十八日から廿二日以前の間)に、【大物見】【花房新兵衛討死】【金子本城落城】があり、後半に、【現 新居浜市域神社仏閣焼き討ち】が行われたものと考察するところである。