高尾城の激戦

415頁より436頁まで

小早川軍上陸

【六月二十七日】毛利の先発隊が小早川隆景の統率のもとに御代島地方に上陸しようとしたが、その地の警備が厳重であった為、隆景は西方の氷見に至り、中山川のほとりの八幡に着岸した。

その日隆景は冷泉民部少輔に宛て書をしたためた。(※冷泉元満は毛利水軍の将。)そこには毛利勢の先陣は隆景であり、吉川・宍戸・福原も順次到着するので、それを待って上陸し、城攻めをする予定であるとある。

そしてその翌日(【六月二十八日】)、福原・吉川・宍戸・小早川四将の名に於いて、軍中制札をしたため、それから【七月二日】まで海岸において城兵と戦い、或は上陸準備に忙殺したようである。

こうして輝元の武将福原式部少輔・宍戸弥三郎等は二日東方宇高新間天満浦地方に上陸し、隆景もまた同日船を乗り捨て、渚へ下り立ち、中山川畔に上陸し、高尾に向かって兵を進めた。

軍兵は上陸と同時に高橋丹後守(光圀)の領内である宇高、垣生、松神子、阿島、黒島、澤津、堀江地方を攻め、郷、庄内を経て金子城を包囲し、また西軍は直ちに丸山・高尾の両城を囲み、盛んに戦闘を継続中。

【七月五日】吉川元長は今治に上陸した。このときの状況を天正陣実録及び澄水記には「中国勢が近付き、来島・今治の沖より平市島・宮山(別宮山か?)の辺り迄数百艘の兵船漕ぎ連れ漕ぎ連れ、その船首に鎗・薙刀を抜き並べておったので、海上はまるで阿修羅のようであった」とある。

「考証」;隆景は「【六月二十七日】本日渡海致します」とあり、又同【六月二十八日】軍中制札をしたため、その上で陸は宍戸・福原の到着を待って城攻めをするとあり、又【七月二日】上陸したことは諸文書が示しており、ここまで慎重に構えたことは、澄水記・天正陣実録によると、「大将小早川隆景が兵達に向けて「元来新居宇摩両郡の者達はおそれをしらず、土民や下々のものに至るまで長い脇差しをさし、常に鍛錬をし、他人の下手に立たないことを信念としている。かるはずみに敵地へ乗り込んでむやみに討たれるな、不覚を取るな」と下知して云々とある。

新居宇摩両郡の諸将は高峠に集まって評定し、元宅総意をまとめて兵を高尾に籠らせた。

丸山城開城と緒戦

【七月十四日】夜金子城を落とし、吉川・宍戸・福原の諸将等、即日金子城の囲みを解いて兵を高尾の竹子(?)に移し、隆景の包囲軍と合流し、同日隆景・元長等金子城落城の顛末を秀吉に報告し、宍戸・福原等もまた輝元に書状で報告した。

之より前に、隆景の軍は丸山城への攻撃を手を強め、城主黒川太郎三郎廣隆は、孤立したこの城では到底支えきれないと判断し、人質を出して寄せ手の軍門に降った。

隆景はこれを許し、城の後方への案内役を命じた。丸山城には吉川の臣香川左衛門尉廣景を入れて之を守らせた。

毛利軍が高尾の前衛軍を撃破したのは東兵が金子城を引き揚げ、この地へ到着直後のことで、元長は更に勢いに乗じ、その夜のうちに高尾城を乗っ取ろうとしたが、隆景が言うには「この先に数々の城があるのだ。特に土佐との一戦は避ける事が出来ないのだから、前途を考えて今日は兵を休めてはいかがか」と言ったので、元長も「仕方が無い」と同意し、翌【七月十五日】より塹壕を掘ったり鹿垣を結い立てたりして一人も逃がさぬと新手を入れ替えて攻め続けた。

その時城中に籠っていた二郡の諸将は近藤長門守尚盛(横山城主)・高橋丹後守光圀(富留野城主)・高橋美濃守政輝(氷見高尾里城守将)・同弟の宇高左馬助・一族の大立太郎兵衛・北内惣左衛門・中居筑後守・同若狭守・山口市郎左衛門・真鍋孫太郎兼綱(金子東屋敷住※これは右の政綱か)・真鍋越後助政綱・その子孫九郎・同孫十郎・秦備前守元治(早川賓蓮寺砦主)・工藤兵部光信(野津子城主)・寺川丹後守祐家(大保木守将)・黒瀬飛騨守道信(黒瀬守将)・難波江内蔵助祐勝(奥ノ内掻上)・白石若狭守信元(西條土居構)・丹民部清光(福武か?)・久門甚五郎真定(州ノ内か?)・松木三河守安村(生子山城主)・その子新之丞俊元・同左京進・同新左衛門・同貞八郎・その一族塩見三郎兵衛時光・藤田山城守芳雄・同子息下野守秀俊(岡崎城主一族)・同一族に矢野右馬助家成・薦田四郎兵衛成道(畑野城主)・一族の上野五郎左衛門・橘義成・横尾山城守祐安(入野城主)・薦田治部進義清(渋柿城主)・一族の市之丞助次・同加地三郎左衛門重綱・野田新九郎秀興・野田右京亮実信・仙波市右衛門・同彦十郎・黒川新右衛門・今村八郎兵衛・大西平内・管善兵衛道鎮・徳永甚九郎・越智信濃守(黒岩城主)・川島三郎五郎・徳永修理亮・同子息杢左衛門(もくざえもん)・塩出紀伊守(江淵砦主)・その子善左衛門等(52名)にて、

寄せ手の先陣は三村紀伊守・同養子の城宮若丸・真田孫兵衛・山県木工助等である。

これに続いて、児玉四郎右衛門尉・同弥四郎元書・羽仁源右衛門・天野少輔四郎・内藤中務少輔元康・平賀新四郎・湯浅治部大輔・天野六郎左衛門・益田右衛門佐・湯原弾正忠元綱・冷泉民部少輔元満・飯田覚左衛門・小川右衛門兵衛・村上又右衛門・同五郎兵衛・同興左衛門・市川三右衛門元直・田上藤十郎由資・熊谷豊前守・井上五郎右衛門・乃美兵部丞・日野新二郎・同惣左衛門・佐々部又右衛門・松岡安右衛門・井上左馬允・朝枝信濃守・桂五郎兵衛・三吉九郎兵衛・野上右衛門允・市川五郎右衛門・今田内蔵允・三宅源之允を始めとし、大将小早川・吉川・福原・宍戸の全軍は粛々と押し出し、先陣は既に城下に到り、後陣はなお八幡山白坪にあった。

城の麓から八幡山の本陣まで連なる軍勢が万雷のような鬨の声を上げれば、城兵もまたこれに応じ、一斉に旗指物をさし上げて喚声を上げた。敵味方の声は天地大海に轟き、山河は崩れ、海岸は砕けるほどであった。

吉川の兵山県木工助は開戦の鏑矢を射る、それから互いに矢玉を飛ばし、弓鉄砲の戦いとなったが、しばらくするうちに剣槍の戦いが始まり、城方より宇高佐馬之助・矢野久之亮・野田新九郎・今井八郎兵衛・大西平内等が敵陣に躍り込み、斬って廻ったので、敵方はこの勇士を討取って功名を立てようと勢い勇んで相対したので、五人の若者は遮二無二に斬り廻り、敵中に割って入ってここを先途と戦った。

中でも宇高左馬助は数多くの敵兵を斬り開き、夜陰にまぎれて落ちていったが、残る四人はいずれも矢傷刀傷数多く、遂に敢えなく討死した。

高尾城落城

【七月十六日】は終日戦いに暮れ【七月十七日】は又早朝より戦いが始まり、吉川勢の山県木工之助・綿貫権内・江田新右衛門、小早川勢の真田孫兵衛・裳掛弥左衛門等が奮戦、激闘した。

城方の将高橋美濃守政輝は里城附近で敵将藤井五郎太夫・三村左衛門佐を討取り、なおも騎乗勢い激しく奮戦し、雑兵や葉武者を討取ること数知らず、その武勇は敵味方を驚かせたが敵兵の槍に馬を突かれて落馬し、終に大勢に取り囲まれ、首を討たれた。高橋丹後守弟美濃守の討死を見て真一文字に駈けてきて、その場に居た敵将植木彦左衛門を斬って捨て、その首を取ったのが一族郎党と共に悪戦苦闘してこれまた乱軍の中に倒れた大久保の砦を固めていた大久保四郎兵衛は、小早川の兵将末田新左衛門に攻められたが、四郎右衛門は一方の囲みを破って隆景の本陣に迫ろうとしたが、終に途中で群がる敵兵に取り囲まれて切り刻まれた。

又真鍋越後助政綱は元宅とは従兄弟の間柄で、長い間備中に居たが、数年前に金子に戻った。武勇のある人で元宅はこれを俸禄を臣下としていたが、この日頃の恩に感じ、この戦に出陣した。二人の子があり、兄を孫九郎といい十六歳、弟を孫十郎といって十三歳に成っていたが父が戦場に赴く時に年若で死なせるのはかわいそうに思い、固く制して家に残しておいたが、父の後を慕い、隠れて高尾に来たので、父も仕方なく置いておいたが、戦の途中に孫十郎が馳せ来て、涙ぐんで父に言うには「兄上は敵を討取り、首を挙げておられましたが、大勢の敵に取り囲まれ、槍に貫かれ死なれました…」と告げたので、行綱は、孫十郎を睨みつけ、「この期に及んで未練がましいことを言うとはなんたることか!急ぎ兄の仇を討って参れ!」と怒鳴りつけたので孫十郎は「畏まりました」と微笑みを浮かべ、群がる敵の真っただ中へ取って返し、甲の前立三枚柏を付け、白糸縅の鎧を来た武者こそ兄の仇であると遂に探し出してこれを打ち殺したが、これまた敢えなく行方知れずになった。政綱は孫十郎の立ち去る後ろ姿を眺めて涙をはらはらと流し、二人の子を先立たせて、いつまでも生きておられようかと南無阿弥陀仏の声もろとも子のあとを追って敵陣に駈け入り共に戦死を遂げた。

 

又、金子村東屋敷の住人で真鍋孫太郎兼綱といって大豪の名を持った者がいた。先祖代々真鍋流の弓術の達人であるが、日頃の手練はこの時の為にこそと、小柴の陰に忍び寄って良将を討とうと待っていたところ、そこに櫨匂の鎧(黄櫨色をしたにいくにつれて薄くぼかした鎧の縅)に薄紫の幌をかけ、白栗毛の馬に青総懸けて乗り、手勢百騎ばかりを率いて麾を振って指揮する様子は、ひとかどの大将と見えたので、兼綱は鎧の高紐を解いて、重藤の弓をとり直し、絃をしめ、箙より金磁頭の矢を取り出し、十三束を酷暑も忘れる程に引き絞り切って放つと、その矢ははずすことなく、敵の胸板に命中した。敵は血煙立てて馬よりどうっと落ちた。これを手始めに「我こそは金子の一族真鍋孫太郎と言う者である!手練の矢先を受けてみよ!」と散々に射たので、これに当たって死ぬ者は十数人、寄せ手は怯えきって我先にと引き退いた。兼綱は矢をことごとく射尽くしたので、大長刀をひらめかし、群がる敵中に駆け入り蜘手十文字に暴れ回り、敵をなぎ倒したので寄せ手は気後れしたように見えた時、毛利家の豪将児玉四郎右衛門尉元言(児玉三郎右衛門元良が?諱が元実)馳せてきて大声で名乗りを上げ、お互いに死闘を繰り広げたが、なかなか勝負がつかないので、児玉筑前守・同小次郎(元兼の子、元忠か?年若に過ぎるのでは?)等、急を聞いて繰り出し、元言を助けた。元言これに力を得て、遂に組み倒して真鍋の首を挙げた。

この時、中村の領主真鍋佐渡守家綱の一族に荒岩源太兵衛と言うものがおり、強力で2m近い金砕棒を打ち振り打ち振り群がる敵中へ突入してそこらじゅうに暴れ回り、獅子奮迅の勢いもって振り飛ばしたので、敵兵はこれに当たって死ぬ者が十数人出た。天晴敵味方の目を驚かせた強者であったが、その身は鉄ではないので、深手を多数負って次第に疲れ、遂に大勢に取り囲まれて乱軍の間に討死した。

この日(【七月十七日】)吉川元春は尾根伝いの高みへ数本の大筒を据え付け城中に撃ちかけたので、塀は大部分が打ち崩され、城兵は震え驚き、落城を早めた。

松木三河守・薦田四郎兵衛・野田左京之佐盛秀等、今日の戦ももはやこれまでと見て、華々しく討死しようと言い合わせて、いずれも晴れの鎧を着けて出で立ち、太刀を真っ正面に抜きかざし、脇目も振らず、一歩も退かずと、向かう敵を選ばず剣光火花を散らして戦ったので、いずれも強豪の大将であり、寄せ手の一陣はたちまち崩れたが、小早川勢の内藤・山県・一方田・蒲池・星野・藤井・口羽・綿貫等取って返して四方八方から矢を射掛けたので、全身蓑のようになった。矢傷太刀傷数多く負って遂に乱軍の間に倒れた。三河守一子新之丞俊元は名高い勇士で二十二歳であった。この日東方の中の谷を守備していたが、父三河守等西方の陣の尾口において討たれたと聞いて、父の弔い合戦をなさんと馬を西方に向けて駆け出したが、西方は既に崩れて敵は東へ廻ったので、これを討とうと矢筒をみると、矢は僅かに二筋残るだけになっていたが、郎党仙波彦十郎・渡邊九郎の二人が射残した矢九筋を取って次々に射たので、敵はこれに当たって死ぬもの数知れず、一矢で敵の首を射抜き、更に後ろに居た郎党の脇腹をグサッと射通し、主従を一度に倒して敵味方の目を驚かせたが、味方は主従三人だったので、郎党等は遂に討たれ、俊元は囲いを突き崩して麓城に帰った。

こうして、高尾城は完全に包囲され、落城の悲運は目前に迫った。この城は堅固で簡単には落とす事が出来ないが、味方の黒川太郎三郎廣隆(周桑郡黒川の一族)丸山城を囲まれ、勝てないと悟り、人質を出して降参し、寝返った上、秀包の配下に入り、軍勢を先導して金子城南方の馬淵口から金子城に向かい、その老臣戸田宗八郎(周桑の人)は隆景の軍に従って切川の奥から細い山道を伝って間道から城の背後500~600mを隔てた小高いところ(現在の長谷無線中継所辺りか)に隆景の将新見・木梨の兵三百余人を導き、そこから鉄砲数百丁を雨あられのように放ちかけた。

これを合図に大手門に迫った敵勢は遮二無二取りかかったので、味方もここが勝敗を決する大事な時だと防ぎ戦い、寄せ手三百余人を討取ったけれど、敵は目に余る大軍で、新手を入れ替え入れ替え息もつかずに攻立てたので、城方は数度の新手に城方の藤田山城守芳雄・忽那新右衛門通恭・寺川丹後守祐家・近藤長門守尚盛・行本但馬守重勝・黒瀬飛騨守道信・小野上野介頼元(小野忠左衛門の事か)・岡田七左衛門・野田盛秀・その子新九郎秀興・越智信濃守・秦備前守・黒田某・久門甚五兵衛等大半討死したので、守将金子備後守元宅、心は猛々しいものの、左右を顧みれば前後の大敵に一族郎党多く討死して、残る者は幾人も無く、自身も甲の吹き返しや鎧の菱縫を数カ所射られ、身体は疲れ切っており、もはやこれまでであるとあきらめた。しかしながら、眼前の股肱の部下達を見殺しにするのは大将として忍び得ないと「まずは不肖の身、死して地下に忠義の魂を慰めよう」と腰の刀を抜いて切腹しようとした。たまたま薦田治部進義清、白石若狭守信元等が傍におり、これを制し、その無意味なことを説いたのでその場はおさめたが、今はこれまでと思い、夜に入って火を城郭に放って、之を焼き、東方より城を出て、残兵と共に一度にどっと野々市に至り、高峠籠城の士と力を合わせて最後の決戦を試みたが、遂にここで壊滅したのである。

元宅はこの日、紺糸縅の鎧に同じ毛の兜の緒を締め、真夏であったので、身軽に出で立ち、残兵を指揮して小早川勢の真っただ中に切入って、阿修羅王が暴れているかのように縦横無尽に斬って廻ったので、近づく敵もおらず、小高い所に突っ立って暫く呼吸を休めていた時、三村紀伊守の手勢がわめき叫んで前後左右から斬ってかかった。元宅は代々伝わる太刀を引き抜いて敵勢を斬り払ったが、既に危うく見えたとき、藤田大隅守俊忠・同下野守秀俊・同久右衛門・同新三郎・白石若狭守信元・岩佐甚左衛門頼清・久門甚五郎・岡田七右衛門時久・荒川清兵衛常久・市川小平次・小野上野介等大将を討たせるものかと元宅の周りを囲み死力を尽くして縦横無尽になぎ伏せたので、敵兵之に気を呑まれ、向かうところ敵無しのようであった。寄せ手は震え上がって道を開けて之を通した。「こうして討死するのも無益である。一方を切り開いて落ちていこう」と思った矢先に、敵は雲霞の如く盛り返し進路を阻止して十重二十重に包囲した。麾下の兵は最前からの戦いに疲れ果て、とても逃れられそうも無く、左右残り少なくなるまで討たれているのを見て、元宅は翻意し、「弓矢取る身は名こそ惜しけれ、眼前に味方の全滅を見て一人生命を全うすべきにあらず」と左右に命じて敵が迫るのを防がせ自らは立ち上がって愛臣の死骸の傍らに行き、端座して諸肌押し脱ぎ、割腹して果てた。

現今ここに元宅の墓がある。従臣藤田俊忠・同秀俊をはじめ、岩佐・岡田・荒川・市川・小野等皆ここで討死した。元宅の近親某、主人の首を布に包んで金子に帰り、その首は元宅居館の後ろの山中に埋めたとの伝説がある。

又、金子備後守の墓と称するものが荒川山村にあり。元宅土佐に逃れようとしてここまで来たが敵軍に囲まれ遂にここで切腹したという。従臣三十四人の屍を同じ穴に埋めた。

又二人の墓がある。金子の臣二人、君の先途を見届けようと、後を慕ってここに来て主の討死を見て割腹して死んだという。元宅の墓は以上三ヶ所のうち、いずれにその遺骸を埋めたのか判明しない。

現今慈眼寺にある墓は寛政四年、土佐と伊予にいた子孫によって建てられたもので、慈眼寺殿威峰宗雄大居士、天正十三年【七月十七日】と明確に刻んであったそうであるが、その墓も今は写真のように笠石様のものだけが残っている。

白石若狭守信元・同子息八郎季親・藤田久右衛門・同新三郎等は元宅切腹して相果て、二郡の柱石を失ったので、今は誰をよりどころに誰の為に戦うべきかと、一方の血路を開き、夜陰にまぎれて落ち去った。信元は一子四郎右衛門を連れ、数多くの傷を負って、血まみれのその身を励まし風早郡米之野に至り、季親は船屋・磯浦を越え金子王子山の南麓字山田に籠ってここに土着し、藤田久右衛門・同新三郎も山中に潜んだが後に郷村に帰住した。

高尾城が落ちる前に、高峠の城主石川虎竹丸は当時八歳になっていたが金子・近藤等の注意により、保国寺の第四十七世玉翁禅師に抱きかかえられ、家来数人を引き連れて城を落ち、市倉というところで旅装を調達し、谷川では肩にかけて渡り、山中の険しい道では、手を引いて落ちて行ったが、桜ヶ峠で後を振り返って見渡すと、高峠は早くもみな焼けて煙りが立ち上りその炎は天まで届き、その凄まじさは言いようの無い程であった。虎竹はこれを見て、住み慣れたところの思い出などを語り出してさめざめと泣いたので、従者は皆袖を絞りつつ、ようやく勇め慰めて手を取り腰を押し立て、宮ヶ谷、姥ヶ谷、しだ尾等を経て僧非有(滝本寺非有;長宗我部家臣、谷忠澄の弟とも。安国寺恵瓊と併せて一対坊主と称された)をたよりに土佐国井ノ河延命寺に逃れて後岡豊城に入った。

又、この兵乱に磯野神社は高峠の城下であった為、その社司某も戦死し、その甥である者、社に詰めていたが、社殿建物等、ことごとく灰燼に帰したので、ご神体を負い奉り、兵火を避けて、土州寺川村に逃れ、後乱が静まった慶長十一年当地に奉還したとのことである。

高尾城には元親と親しかった金子方の桑瀬源七郎通宗、同孫助、同孫七郎、及び土佐の援軍高野某等も籠っていたと見え、土佐編年記事略の中に左の文書がある。

「高尾城が落ちたことは是非に及ばず、籠城されておられたとのこと息災でしょうか。便りを頂いた通り、土佐へ逃れた方々を引き取ることに異議はございません。七月二十一日 長宗我部元親 桑瀬殿 進上」

「この度の高尾籠城に到り、このうえもなく気がかりでならない。つつがなく退却することこそもっとも肝要であるとこの便りを持って申しておく。七月二十八日 長宗我部元親 高野殿」

野々市原玉砕

高峠を焼き捨て野々市に出た留守兵は高尾城の落ち武者と一緒になり保国寺の僧を始めとし、二郡の荒法師等まで「施主の地頭を討たれたので弔い合戦だ」と解脱同相の衣を脱いで邪見無斬の鎧をまとって戦場に出て戦った。その中に徳藏寺の東庵に任瑞と言って強豪の法師がいた。数多くの敵を悩ませたが、遂に楢崎六郎によって討たれたことは「金子氏の使僧と徳藏寺考」の章で述べたのでここでは略す。

又、鈴木能登守重長・川端右衛門佐重正・藤代三郎太夫勝重・藤枝四郎重道は兄弟で、かつて毛利家に仕えたものであるが、故あって宇摩郡に来て後、新居郡の松木家にゆかりのある人が居たので、ここに留まっておったが、平素から松木の扶持を受けていたので、この度討死してその恩に報いようとしたが、松木は之を押しとどめたので一旦は思いとどまったが、野々市へ懸け出て、「功名も不覚も共にしよう」と兄弟四人打ち連れて「是はさる浪人であるが、人々に恩を受けた侍の義によって討死いたす!最後の働きを手本にせよ!」と長刀太刀得物を取って真っ先に進んで敵十六人を斬って落とした。敵方の将三村紀伊守の養子城宮若丸は遠くからこれを見て、「三羽島の印を付けた出で立ちで戦っている兵四人は功有るものであろうと見える、あれを殺すな!生け捕りにして郎党にせん!」と下知したので、寄せ手はこれを生け捕りにしようと取り囲んだが、寄せ付けず、そのうちに十重二十重に取り囲む敵兵と戦って、枕を並べて討死した。一時の情に感じ入り、討死したことは不憫の至りである。

久門善五郎直定は高尾にて父を討った敵桂左衛門を討取って高峠の炎上を見て船に乗り播州へ落ちた。

金子元成の三男金子孫八郎家綱と言う人が居た。戦ももはやこれまでなれば、金子の本城に帰ろうと馬を急がせたので、寄せ手の勢はこれを見とがめ、「卑怯な、戻れ!」と呼ばわったので、家綱は「心得た!」と取って返し、敵を組み伏せたのを、星加治郎兵衛と言う者が丁度居合わせ、走りよって敵の首を掻いた。家綱その首を取って鞍の前輪に結え付け馬に飛び乗って落ち延びたが、思えばこの首誰に見せることもないので、鴨川に至って早瀬にザンブと投げ込み、「汝、故郷に帰って妻子に遭え」とひとりごとを言って立ち去った。

近藤三郎兵衛と言うもの敵兵村上五郎兵衛と言うものの放つ矢に左の膝を射られ、よろよろと引き退いたが、ほとんど逃げることは出来そうも無いので、500m程踏み上がって小高い柴原に隠れていたが、敵五騎がこれを見つけて分け入ったので、三郎兵衛は今はこれまでと思い、太刀を抜き、待ち構えて不意をついて立ち向かったので、敵数人の膝をなぎ倒した。しかし歩くことが出来ないので、残る敵兵は打ち重なって遂に首を取られた。

その後、寄せ手は一塊になって一面に押し掛けたので、丹民部をはじめとして、命知らずの不敵ものどもが引き返して、よそ見もせずに斬って入ったので、これにも寄せ手は名の有る侍大将が大勢討たれた。

丹民部清光は夕暮れの中に小早川の手勢吹上六郎というものと組み合ってようやくこれを組み伏せたが、六郎の腕力は抜群で、民部はこの日の戦いにかなり疲れ切っていたので、刀を抜こうとしても敵に跳ね返されるおそれもあるので、どうしたらよいかと困っていたとき、丁度民部の郎党五郎兵衛が急を聞いて馳せ参じて「お助け申し上げる君は上か下か」と聞いたのだが、民部は元来吃音であったので、すぐには返事が出来ず、六郎が真似をして「下だ!」と言ったので、五郎兵衛は「心得た!」と間違えて、主の背中に斬りつけた。六郎は飛び起きて逃れたのだが、五郎兵衛は間違えて主を討ったことを知り、追いかけてきて六郎を探し出し、遂に追いついて刺違えて討死した。

加藤民部正は伊我利川(猪狩川)で敵三人を切り伏せて野々市に逃れて、ここに討死した。

中にも、徳永甚九郎、塩出善五郎一族に管善兵衛、難波江藤太夫、工藤の郎党に岸源五郎、丹の一家に東條五郎四郎などという者共、大勢の中へかけ入って、首を取って投げ捨て首を取って投げ捨て働いて、遂に一陣を打ち破ったが、終に衆寡敵せず討死した。この者共の死骸は皆、田んぼのあぜ道やどぶ川などに倒れていたのを後に所縁の者等が尋ね求めて亡骸を隠し納めて弔ったとのことである。

この一乱に真言院保国寺は言うに及ばず、二郡の神社仏閣は一宇も残らず兵火にかかって寺物当記に至るまでことごとく灰燼となった。

他には八幡山は大手口にて、鎗合わせの場所となったので八幡三所の御宮ならびに近辺の社家在家に至まで焼失した。

こうして味方の兵共は今日限りの命と思い定めていたので、我が子が討たれても親はこれを助けず、親が討死しても子はこれを省みず、死にものぐるいに戦ったので、さすがの毛利勢もまた二百騎ばかり討取られた。隆景は軍勢に向かって「これほどの小勢に時間がかかっているばかりでなく、味方も大分討たれるとは情けない、ただ一揉みに踏み破れ!」と采配をふるって下知したので、寄せ手の軍兵ども、一気にもみ破ろうと切っ先を揃えて攻勢をかけた。味方は先の無い命をいつまでも長らえる愚を思って力の限り、手持ちの武器の限りと戦ったが、稲麻竹葦のように立ち並んだ大勢なので、射ても切っても尽きることなく、散々になってばらばらに引き揚げて息をついた。

隆景は諸勢を集めて首実検をして、功名帳に記し、大きな穴を掘らせてこの中へ討取った首を入れ、一所に埋め、隆景はこの墓に向けて兜を脱ぎ鎧の上に袈裟を掛け、杖を取って墓の上を一鞭打って「打つも打たるも皆夢也、早くも覚めたり汝等が夢」と高らかに唱えたと言い伝え、その墓は今に首塚といって野々市原に残っている。

味方は残兵なお返し合わせ返し合わせて死にものぐるいに戦ったので、敵方も阿曽根源左衛門、口羽善兵衛、福原元俊、児玉彌四郎、宍戸備前守、志道左馬之助、平佐、天野少輔四郎等の大将自ら手を下して働いたので、味方は終に叶わず、一人残らず討死した。

時に天正十三年乙酉【七月十八日】であった。

【七月十七日】高尾城落城し、翌【十八日】城兵自ら高峠城を焼き、両城に生き残った武士は皆野々市に出て全滅した。その影響で諸々の城砦に籠っていた味方はことごとく城を捨て退散した。

考察

高峠の落城を諸書に七月二十八日とあるが、之は十八日であることは元長自筆書状に「十七日亥刻(午後10時前後1時間)高尾城が落ち、その報を聞き、高峠の近藤、生子山城、その他同様の小城は退散した」とあるのをみても明らかである。澄水記に習って書いた伊予の諸書には皆二十八日とあるが、この原本澄水記は天正乱後百年を経た天和四年に言い伝えや伝説を主な材料として記述したものであるので、十八日を二十八日と書き間違えたものであろう。

なお、高峠落城はこの日であって二十八日でない証拠は、

①七月二十一日阿波国脇城を包囲中の羽柴秀次より小早川隆景に宛てた書状の一節に「両城令落去事」とある

②備後三原の陣営にいる毛利輝元が七月二十日毛利(末次)元康に宛てた書状の一節に「去る十七日、金子(の籠る)城 高尾の儀、これを切り崩し、敵千余を討ち捕えたこと、その響きもって石川(の)城(※高峠城)の他十数カ所余りが落ち去った」とある

③七月二十日付頼次より能登新七に宛てた書状に「今度豫州に到り、新居郡石川城、隆景、元長出陣し、之を落とした~」

④七月二十一日長宗我部元親より氷見金子新発智(金子元宅の四男で氷見を分領されていた)の領内、高峠背後の住人桑瀬源七郎に宛てた書状に「高尾落城のことはどうしようもないことであった。とりわけ、(石川の)御子息とともに籠城されていたとのこと、どうされておられるか。当方にて引き取ることに異議はない」とあるによって、高峠も高尾と同日もしくは一日遅れた七月十八日の落城と見て間違いは無いであろう。

また、二郡の将士がどれほど猛烈に抵抗したかは、七月二十三日付毛利輝元から桂平二郎に宛てた書状によっても分かる。その要旨は「豫州の高尾城が落ちたので、讃岐境の宇摩郡仏殿城を包囲しようとして居るが、そこは長宗我部氏の陣所に近い所だから多い少ないにかかわらず援兵を出してくれよと小早川隆景から懇願して来て居る」と認めている。