郷土軍の残兵掃討さる
羽柴軍総大将羽柴秀長は、7月15日に開城した阿波一宮城から長宗我部の重臣、谷忠澄を招いて元親への降伏進言を説いた。
上方をその目で見、四国との国力の差を十分に認識していた谷忠澄はこれに同意し、単騎白地城に至り元親に降伏を進言するが、四国を統一したばかりで中央への野心がある元親には到底受け入れられず、重臣一同が谷の進言に賛同してもなお元親一人降伏に応じない状況であった。
毛利軍には新居郡を征した後、西進させ直ちに湯築城方面に展開させる作戦であったが、これに圧力をかけるべく東進を命じた。
元親のもとには新居郡玉砕と金子元宅討死の報が届き、自軍の度重なる開城敗走、重臣一同による降伏進言に、7月25日付の秀長の停戦条件を呑んでようやく降伏、蜂須賀正勝を仲介とした交渉により8月6日までには講和が成立したが、その間に東進する毛利軍により新居郡の残兵は掃討されることとなる。
仏殿城開城
小早川隆景は秀長の命を受け、新居郡の戦後処理を進めながら一部の兵を東進させ、川之江仏殿城に至らせた。
新居郡の将、松木三河守安村は、子の新之丞俊元および惣次郎俊則ほか一族郎党とともに高尾城及び野々市で戦い、負傷兵を助けつつ自城生子山城へ帰城した。
しかし、生子山城では高尾城の落城の報にその夜明け頃、再起出来ない者、老人女ども六十余名が自害していた。帰城した安村は戦える者のみを引率して弓曽山(船木)、イラズ山(?)に籠るものち、藤田、金子の残兵と仏殿城に入った。
新居郡の高尾城同様、長宗我部本陣である白地城へ通じる戦略的要衝としての位置にあった仏殿城では、毛利軍の東進を阻むべく徹底抗戦の構えで待ち構えていた。
8月6日の講和成立の報が届く直前の8月5日、仏殿城大西口に攻め懸かる毛利軍に城兵は打って出てこれを退けたが、この戦闘で松木安村は討死。
その後、元親降伏の報が仏殿城にも届き、仏殿城は会場するに至った。
残兵による金子城再籠城
仏殿城に籠った松木安村のほかにも、金子・高尾・野々市にて討ち漏らされた新居郡の残兵等は山谷に彷徨していたので、長宗我部降伏の情報など知る由もなく、あるものは郷土の大将金子元宅の無念を思い、またあるものは土佐方への義理立てから、三々五々集まって空城となっていた金子城に再び立て籠った。
仏殿城へも兵を割いていた小早川隆景は7月31日留守居の籠る新居郡東部の各城に掃討軍を派兵、金子城へも一隊を派した。敵地での度重なる戦に疲れた兵達を休ませつつ、迂闊に攻めることなく用心して囲むよう指示していたが、翌8月1日の未明に城方の挑発に乗り北谷口から寄せてしまい退けられてしまう。
その後も城は落ちる気配がなかったが、城方その夜に評議し、「金子城に籠る我等小勢だけで戦っても戦果を上げられるものでもない。未だ無傷で堅牢な生子山城に落ちてかの城に籠るものたちと一つになって戦おう。」となり、夜陰に紛れて金子城をあとにし、生子山城へ入った。
生子山城落城
生子山城には城主松木安村の次男俊正(幼名 新吾)はじめ留守居の将のほか、百姓百人程が立て籠っており、金子城から落ちてきたものたちと併せて二百人での籠城となった。
ここ生子山城は堅牢な山城で馬でも登れず、城中からは急峻な山坂を大木や大石を投出し、寄せ手も力攻めでは到底落せるものではなかった。
そこで小早川隆景は「火攻めにしてあぶり出してしまえ」と城の東西の谷と北側大手門から囲むように火を放った。この火は強風に煽られ周辺の村々にも燃え広がり、辺り一面火の海となった。
これには生子山城中も打つ手が無く、南側の尾根伝いに落ちていき、8月6日遂に落城したのである。
東田の戦い
小早川隆景によって派兵された掃討軍は金子城のみならず、別の一隊は海路上陸し垣生八幡神社の南西にあった富留土居砦を攻略し郷山の岡崎砦攻略にかかった。
富留土居砦の高橋丹後守の留守隊と岡崎山の藤田大隅守の軍勢は、要害堅固な生子山城に結集しようと南へ進んだのであるが、時既に遅く生子山城は落城していた。
進むべき城も落ち、退路も絶たれた高橋・藤田の留守隊が東田に入った時、生子山砦を攻略した一隊は上陸隊と合流のためか北進し、東田で敵味方が遭遇し決戦となった。
包囲された新居勢の大半が討たれ、背水の陣となった高橋・藤田の留守隊による決死の戦いにより小早川勢にも多数の死傷者が出た。
決戦後は敵・味方のしかばねが東田の地域全般にわたって散乱していたといわれ、勝利の小早川勢が集結して槍や太刀を池で洗ったので、池の水が血で紅になったそうである。それからその池の名を「血の池」と呼んでいたが、のちに縁起が悪いということで「猪の池」と名を変えたということである。
新居郡の残兵掃討さる
これにより、新居郡の残兵はことごとく掃討され、長宗我部元親降伏の報に接し、毛利軍による東進は終結することとなる。
その後、西進し周桑郡方面を平定し、四国攻め唯一の玉砕戦となった天正の陣は終わりを迎えるのである。