天正の陣 戦記
白石友治著『金子備後守元宅』を中心に、様々な文献をもとに天正の陣の既存の説をここにまとめる。
なお、一次史料をはじめとした史料をもとに、私(管理人)が独自考察したものは、
「天正の陣」各頁にまとめてあるので、そちらを参照願いたい。
天正の陣以前の新居・宇摩
伊予国と讃岐・阿波両国との要衝
時は南北朝時代の細川氏による伊予侵攻まで遡る。
室町時代の新居・宇摩二郡は、伊予 河野氏と阿波・讃岐の細川氏との間で翻弄され続けていた。その象徴が当初細川氏の代官として高峠城主となった石川氏である。その経緯は別途記すこととする。
その後戦国の世となり、石川氏が弱体化するにあたって頭角を現したのが金子十郎元成(1532〜1570)金子備後守元宅(1551〜1585)父子であった。
父 金子十郎は石川氏と河野豫州家からの自立を図り、三好長慶の娘を石川家に輿入れさせ、子 金子元宅に至っては、伊予・讃岐・阿波だけでなく、土佐・安芸とも好を持つ“全方位外交”を展開し情報収集、情勢判断を行い、早期に四国統一を目指す長宗我部元親と結び、その伊予侵攻を助けた。
そのようにして1300年代中期から1500年代後期にかけての約二百年以上に渡って新居・宇摩の二郡は緊張状態にあり続けたのである。このような歴史的背景がある上に、金子元宅が長宗我部と結び、早々に一領具足を取り入れたことが、天正の陣に際し寄せ手の総大将小早川隆景に「元来新居宇摩両郡の者達はおそれをしらず、土民や下々のものに至るまで長い脇差しをさし、常に鍛錬をし、他人の下手に立たないことを信念としている。かるはずみに敵地へ乗り込んでむやみに討たれるな、不覚を取るな」と言わしめた所以であろう。
秀吉の大軍を迎える長宗我部の本軍
四国平定戦を仕掛けた秀吉の大軍に対し、長宗我部元親が一族国人を率いて乾坤一擲の大勝負をしようとしたのだが、四国の兵は雲霞の如き上方勢に気を呑まれ、どこでも華々しい戦はなかった。
武勇絶倫といわれる東条関兵衛実光(甲斐源氏の出自を持つ阿波の豪族で元親の阿波侵攻により、弟、東条唯(只)右衛門を人質に出し降伏した。四国征伐では木津城を守備するが、秀長軍にいた叔父の東条紀伊守の説得により戦わずに土佐に退却する。帰国後元親の命により切腹。妻は久武内蔵助の女で元親の養女。)ですら、羽柴秀長の調略によって木津城の守りを棄てて土佐に退却し、岩倉・脇の守将、長宗我部新右衛門親吉もまた、這々の態で逃げ帰った。
元親の弟にして知勇兼備の将と称せられた香宗我部親泰さえ、牛岐城の守備を捨て、上方勢と一戦だに交えずして土佐に退却してしまう始末であった。
ただ、僅かに気を吐いたのは、江村孫左衛門・谷忠兵衛等の守る一宮城に於いて秀長の率いる数万の兵に対し、十数日間戦闘を継続したが遂に和を講ずるに至ったのである。
四国攻め唯一の玉砕戦となった天正の陣
そのような戦況の中、伊予新居郡の金子備後守元宅の率いる二千余騎(公称)の寡兵のみ、毛利の大軍三万余騎(公称)に相対して一歩も退かず、全軍壊滅するまで火花を散らしたのである。
新居郡中に於いても金子城・高尾城の戦が最も激甚を極めた。
天正十三年七月十八日、備後三原の陣営にいた輝元が、安芸二子城の留守城番であった桂左衛門太夫就宣に宛てた書状にも「豫州表金子城のこと、やっとのことで落とせたようである」と報せていることや、
同年七月十四日、小早川隆景・吉川元長・安国寺恵瓊等、書を戴き、金子城落城の事を秀吉に報じ、同月二十一日、秀吉の返書にも金子城落城を祝し、両川戦功の多大なることを賞賛したことは、
その戦闘がいかに猛烈であったかを雄弁に物語るものである。
天正の陣 概要
主戦場 | 金子城 | 高尾城 |
城方大将 | 金子対馬守元春 | 金子備後守元宅 |
寄せ手大将 | 吉川元長 | 小早川隆景 |
寄せ手本陣 | 金子川(現金栄橋)河岸 | 石岡神社 |
籠城日数 | 7月2日夕刻〜14日夜(12日間) | 7月12日〜17日夜(5日間) |
城方兵力※ | 郷土軍約300人+土佐援軍約400名 | 約700人(里・丸山・高峠込み) |
寄せ手兵力※ | 東兵として約6,000人 | 東兵合流後約15,000人(※総兵力) |
※天正の陣 双方兵力の考察
公称では小早川隆景率いる毛利の軍勢3万余に対し、金子元宅率いる城方2千とされているが、
戦国時代のどの戦いでも公称兵力は実数の数倍で表現されているといわれる。では天正の陣ではどうか。
【石高に対する兵力動員可能数】
1万石に付き250人程度であったといわれている。
【毛利家】
毛利輝元が秀吉に屈したことにより山陽山陰十一カ国から五カ国120万石に減少していた。
120万石での兵力動員可能数は上記を当てはめると30,000人となり、公称の通りであるが、そもそも総力を挙げて伊予に侵攻しては国内の残存兵力は0になってしまう。そのような派兵はあり得ず、少なくとも半数は国内に残すと考えられるため、侵攻兵力15,000人と憶測されるのである。
【新居・宇摩の軍】
天正の陣より約250年後の天保十三年に完成した「西條誌」によると、この辺りの石高は4.18万石であった。江戸中期〜後期は人口減退期であったが、仮にこれからそのまま兵力動員可能数を導くと約1,000人となる。
なお、太閤検地によるとこのころの四国の総石高は82万石(実質100万石とも)で、伊予国全体で32万石にて、伊予国全体の兵力動員数は約8,000人程であったとみられる。
これらから憶測するに、この地方だけで2千〜3千の動員は考えられず、「西條誌」換算の約1,000名動員というのが妥当と考えられるのである。
追記;西條誌より以前の「正保郷帳」(1644~1651年)による石高は、
・新居郡;26,658石/動員可能 約666名
・宇摩郡;21,173石/動員可能 約529名
で合計約1,196名となる。
宇摩郡からの動員を半数、新居郡は総動員として換算すると約931名となり、
やはり1,000名前後の動員であったと考えて、大きくズレはないものと思われる。
【高尾城配備許容兵数の検証】
高尾城は一ノ郭 面積(長辺30m、短辺17m、縦25mの台形)≒587㎡≒177坪。
1)1人あたりオフィス面積(2014)東京23区で3.92坪→45人収容のオフィスと同等の広さ。
2)大都市の場合、国が住生活基本計画で定める4人家族最低の広さは50㎡→47名ほどの許容。
3)建ぺい率50%として櫓建物の広さは半分の294㎡→上記1)2)の半分で約25名ほどが余裕を持って居られるスペースと考えられる。
(考察)
ただ、戦時収容で余裕を持たせる訳もなく、管理人の住むマンション58㎡には、無理をすれば12名ほどは寝られそうである。3)想定の櫓建物面席294㎡に換算すると約5倍、60名ほどが1つの曲輪に収容可能と考える。
単純計算であるが、3つの郭の高尾城本城で180名収容、里城、丸山城、高峠城の4拠点各同数を想定すると720名となり、概算ではあるが、上記の【兵力動員可能数】での検証の700名に近いことからも、やはり、高尾城の戦いにおける城方兵力は最大でも700名程度であったと推定するのである。
【土佐からの援軍兵力考察】
土佐からの援軍を率いた武将として名が挙がるのが四将あり、詳細は別頁に記すとして、
ここでは兵力考察のみ行う。
(金子城方面)
・花房親兵衛;詳細不明。古文書によると6月下旬に金子城に入ったか?50名との記述も見られるが不明。
・片岡光綱;その領地は主に吾川郡北部と高岡郡北偏部であり、慶長郷帳(1604~1610年)による石高は、吾川郡が8,000石、高岡郡が45,089石で、片岡領を概算するに、吾川郡の北半分で4,000石と、高岡郡の北偏(1/4として)11,272石で、合計15,272石ほどと考察する。その場合、片岡家の総動員可能数は約382名となる。
白石友治氏の著書に、金子城への片岡光綱援軍の主な者の名が記されており、その合計が155名。その他従者200余名との記述があり、その合計は355余名となる。これは、片岡領からの総動員に近く、当主である片岡光綱が自ら出陣していることも頷け、天正の陣に於いて、新居郡の戦いがいかに重要な位置付けであったかが分かる。
※金子城に入った土佐援軍総数が上記(花房50名+片岡355名)であったとすると約400名となり、高尾城籠城兵数とほぼ同数の約700名となる。これが、金子元宅と長曾我部元親との防衛戦術の一つであったと考察するのである。
片岡援軍の合流を受けて、倍増した金子城兵に対抗すべく、寄せ手の小早川隆景は、東兵に加え、追って小早川秀包を向かわせたものとも考えられるのである。
(高尾城方面)
・高野(和田)義光;数名か?
・伊東近江守祐晴;一族のみか?
※それぞれの拠点である大川村と本川村は、土佐郡18村中の2村で、慶長郷帳(1604~1610年)による土佐郡の石高が18,691石であり、単純に2村換算すると、2,077石となり、2村合計でも動員可能数は約52名なのである。さらには山間部であるので、単純割よりも少なかったのではないかとも思われるほどである。また、本川五党の一、伊藤家(のちに大薮家)当主(祐房、その子 祐宗※大薮紀伊守)の出陣もないことから見ても、軍勢としての兵動員はなく、数名程度で赴いたと考えるのが妥当と考察する。援軍としてではなく、別の任を得て赴いたのであろう。
天正の陣 戦記
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