金子家文書〜本能寺の変と藝羽入眼〜
金子家文書において、金子元宅が登場するのがこの時期である。
本能寺の変は、中国四国地方においても大きなターニングポイントとなった。
それまでの勢力関係は、織田家に対し藝土入魂で相対する形であったのに対し、
この時の秀吉中国大返しのために藝羽入眼となり、その後、毛利家は秀吉麾下となってしまう。
これにより、藝土ならびに豫土は緊張関係となるのである。
(1)長宗我部元親【起請文】天正9年(1581年)7月23日
右之意趣者、互申合筋目自今以後聊以不可有相違候、自然御家中如何様之儀候共、承合、有體に可申談候、境目之及御気遣候はは加勢之段不可有疎略候、萬一中違族等是又、互可申明候、何篇無二不可存別儀候、若此旨於偽者、梵天帝釋四大天王惣而日本國中大小神祇殊氏神八幡大菩薩天満大自在天神各御罰可蒙罷者也仍起請如件
天正九年七月廿三日 長宮元親
金子備後守殿 参
起請文とは、現在の「契約書」である。
天正9年(1581年)7月23日に、長宗我部元親は、金子元宅に対し起請文を送り、加勢も含めて、なんでも相談するようにと、その後盾になることを約している。
この時期は、それまで織田信長による四国政策が長宗我部氏から三好氏へ変更され、織田・長宗我部間が決裂する頃である。
さらには信長の命で中国攻めを行う秀吉が、鳥取では吉川氏と対峙し、また、秀吉の対毛利前線基地であった淡路の平定に乗り出しており、
長宗我部元親としては境遇を同じくする毛利との藝土入魂を強固にすべくその窓口として、地理的要因や、それまでの豫州河野家との経緯を勘案し、新居・宇摩の有力国人領主であった金子元宅を確実に取り込んでおく必要が高まったのである。
(2)小早川隆景【御返報】天正10年(1582年)12月19日
猶對井又右御細文慥披見候條々無餘儀候、元親此方之儀是非無心疎候間、豫土兩國出入之儀少キ事候間、偏申調度候、御支度令爲候□□矣(※御支度被存候、申上候矣、)※愛媛県史資料編
態々御音問殊更鷂一居被指越候、誠に御懇意之至候、内々所望之所一入令自愛候、仍豫土半々事、如仰爾今相滞殊に去比於宇和郡被及鉾楯之偏不可然候、双方存御為儀候条、一切無退窟重疊申繰候、旁以其御分別肝要候、以御才覚其境目之儀者、御無事之通専一候、土州に茂彼是御賢慮可有之候間、果而者両国和睦可為成就候、隨而去年以来被對湯月御入魂之儀、淵底令存知儀候、彼方に茂雖不可有御忘却候、国中依打續之弓矢、可為御疎略之體候、内々可申渡候之条、彌不可有御等閑事肝要候、御懇之段何も従是可申述之条、先以省略候、恐々謹言
十二月十九日 小早川隆景
金子備後守 御返報
(独自考察ポイント)
・猶;追而書・尚々書=追伸である。
・井又右=井上又右衛門春忠;隆景側近であり、水軍の乃美宗勝や児玉元良と湯築担当と言って良い人物である。天正10年10月〜翌11年6月までの滞在記録(通直書状)がある児玉元良と同時期に湯築に逗留(※天正11年6月3日村上元吉書状に乃兵・井又右帰国の記述)、藝豫間の対応を行っている。天正13年正月の井上春忠宛蜂須賀正勝黒田官兵衛書状からも、井上春忠が藝豫間のキーマンであったことが伺える。
・元親此方之儀是非無心疎候間;藝土間が是非なく離反してしまったとはいかなる意味か。元々は悪く無い関係であったものが、なんらかの止むを得ない事情により“心疎”となってしまった。
・豫土兩國出入之儀少キ事候間;上記から続き(候間)、その上、豫土間にも交流が少なくなってしまったと言っている。このことから、河野氏が毛利氏の勢力下であることが読み取れる。
・偏申調度候、御支度令爲候;小早川隆景から金子元宅に対し、藝土ならびに豫土間の間を取り持って欲しいという意図が読み取れる。
・豫土半々事、如仰爾今相滞;元宅から隆景へ豫土五分五分の均衡を保つことが順調ではないことを告げている。
・去比於宇和郡被及鉾楯之偏不可然候;先頃、宇和郡において戦となったことを不適当と隆景が言っている。隆景としては、土州との関係を良好に保ちたいのであって、毛利氏影響下にある河野氏と長宗我部氏が争うのは不適当なのである。ではこの「宇和郡被及鉾楯」とは何か?前後の文脈から考察するに豫土間、いわば河野氏と長宗我部氏との決定的な合戦というのではなく、それにつながりかねない局地的な争いであるとのニュアンスが読み取れる。
・双方存御為儀候条、一切無退窟重疊申繰候;双方とは豫土。隆景としては双方のために繰り返し申してきたことだと尽力していることを伝えている。
・旁以其御分別肝要候;上記の上で、いずれにせよその人の御分別が肝要であると。その人とは三人称であるので、ここでは元親をさすと読み解ける。
・以御才覚其境目之儀者、御無事之通専一候;豫土国境の平穏無事を願う隆景の思いが語られている。
・土州に茂彼是御賢慮可有之候間、果而者両国和睦可為成就候;元親にも賢明な考えがあるので、豫土の和睦は成就すると言っている。“賢明な考え”とは何か?次の一文に続く内容であろうと考察する。
・隨而去年以来被對湯月御入魂之儀、淵底令存知儀候;上記ゆえに、金子元宅が河野通直に向け、昨年からよしみを結ぼうとしていることは隆景の耳にしっかり届いていると言っている。これは湯築に逗留する井上春忠を通して隆景に都度情報共有されていることが推測できる。また、元宅が、豫土境目の御無事のために湯築河野氏と昨年より入魂ということは、この“昨年”時点で、元宅が長宗我部元親の意向を持って河野氏とのよしみを結ぼうと動いていたことが分かる。この動きをさして前文で“賢明な考え”と表現したものであると考察する。これは“昨年”には長宗我部元親と金子元宅の間にしっかりとした盟約があったことを裏付けるものであり、時系列的に“昨年”=『天正九年の起請文(1)』であると考察でき、この書状が【天正10年】のものである裏付けにもなると考察するところである。
・彼方に茂雖不可有御忘却候、国中依打續之弓矢、可為御疎略之體候;隆景から元宅へ本件の念を押している、いや、プレッシャーをかけているとも取れる一文である。
・内々可申渡候之条、彌不可有御等閑事肝要候;“内輪に申し渡す”とは「井上春忠等毛利家臣を通じて、湯築河野氏へ申し渡す」ことと独自考察する。のちに長宗我部元親から金子元宅への書状で「道後之儀〜、藝州次第之様子令推察候」とあるのもここに繋がると考察する。また続く、“いよいよなおざりにすべきではないことが肝要”という一文も、後の書状にある「舊冬従藝州之状共、見せ給候間〜、萬端恐懼無盡期方と相見へ候、此方へも彌此比は深甚之體候」にも繋がる内容ではないかと考察するところである。
(独自考察)
天正9年の(1)起請文取り交わし以降、長宗我部元親は金子元宅を仲介役として、湯築河野氏とのよしみを結ぼうとしていた。これは、天正7年の宇和郡岡本城における久武親信以降も南伊予侵攻を企図しながらも、その先にある河野氏、そしてその後盾である毛利氏とは、対三好氏連携、その後の対織田連携の“藝土入魂”が重要度を増していた背景があるものと考察する。
この考察からも本書状は【天正10年】のものであることは疑いなく、また、長宗我部・金子の盟約は、長宗我部による東予侵攻による降伏的性格のものではなく、“藝土入魂”対織田戦略の重要なキーマンとしての金子元宅との同盟であり、小早川隆景にとっても同じ理由から元宅がキーマンであったと言って良いと独自考察するところである。
(3)井上彌四郎景敬書状 天正10年(1582年)12月19日
被對親候者、御紙面拝見候、備中表當時罷居候條、爲我等御飛脚之通申聞委細御報被申入候、乃兵への御状自我等可相届候間、右事も同前に候、重而御返書可被申入候、爲御分別候 恐恐謹言
十二月十九日 井上彌四郎景敬
金子備後守殿 参 御宿所
井上景敬は(2)の他にも、金子元宅から乃美兵部丞宗勝への書状も届けると言っており、奏者である。
なお、この書状で重要な一文は「備中表當時罷居候條」である。
井上景敬が、金子元宅から小早川隆景への「御紙面」と「鷂一居被指越」=「被對親候者」を「拝見候」の時に、なぜ「備中表」に居たのか?(2)の独自考察と、後述する金子元宅と香川信景らとのやり取り、そして織田家 羽柴秀吉による中国攻めの経過を勘案し、金子-小早川の奏者である井上景敬が「備中表」に居なければならない、またそれをあえて書状に記しているところからも、本能寺の変-中国大返し-備中高松城明け渡しという一大事に関連して「備中表當時罷居候條」なのであろうと独自考察する。
よってこの書状も【天正10年】であると考察するところである。
(4)長宗我部元親【御返報】天正11年(1583年)正月17日
御懇状之通再三令披見候、いつもながら誠に御情之入候段奇特に候
一 道後之儀干今、無珍説候歟、藝州次第之様子令推察候、相替候事候はは頓而可示給候
一 郡内表への藝州衆加勢之段、此方へも其聞候、先書に如申、彼口之儀は輙可相澄候哉、但如何於趣は、切々可申通候
一 黒山之儀申問(調)儀候、其口此(御)間之儀は先面むき、いかやうも不相替御入眼可然候、如御心付此方可依手前候、其段令存知、申談事候間、可令(被)得其意候
一 賀島之儀とかく、豫州ことの、おこりと(ハ)可成候歟、来島本意候はは(者)能島不(※不はナシ)可有存分候哉、但世之(上)存外に成行而巳候、此方眞實を引合候へば相違而己(巳)候、切々御心付彌専用迄候
一 舊冬従藝州之状共、見せ給候間(、即)返進(遣申)候、萬端恐懼無盡期方と相見へ候、此方へも彌此比は深甚之體に(※にはナシ)候
一 其元之儀、如申問(調)善悪共貴所御入魂返(有)間敷候、萬般賴存候、猶委曲瀧本寺可申入候間不能審候 恐々謹言
尚々早々御使僧旁々御入魂之儀共申盡かたく候、かしこ
正月十七日 長宮元親
金備 御返報
※()内は愛媛県史史料編の記述
(独自考察のポイント)
※2024.8.5修正(7.→4.)
・この書状を【天正11年】とする考察は、一つに、「舊冬従藝州之状共、見せ給候〜」の書状が「郡内表への藝州衆加勢之段〜」(※郡内表=喜多郡の方=喜多郡の手前南の宇和郡での鉾楯)、「道後之儀干今、無珍説候歟、藝州次第之様子〜」などの文言が、(2)の小早川隆景書状を受けてのことと独自考察することからである。
また、二つ目には、「賀島之儀〜」を“豫州の一大事・蜂起”と言っていることから、天正10年4月の来島通総の織田家への寝返り(天正10年5月より能島村上氏が来島攻撃・天正11年3月脱出)に伴う得居通幸による鹿島城籠城(天正11年8月ごろまで)の件であろうと考察している。本件は藝土入魂による対織田戦線確立を目論む元親としても“一大事”と言って良いことであろう。
・「郡内表への藝州衆加勢之段、此方へも其聞候」はこの少し人ごとなニュアンスから、長宗我部-河野間の直接的な軍事衝突ではないことが考察できる。前年天正10年の西園寺公広、宇都宮宣綱を助けて大野直之を地蔵嶽城に攻め、河野通直が仲裁した件(予陽本)あたりのことを差すか。
・「黒山之儀」が初登場である。以後度々登場する。“黒山”とは“金備”“長宮”同様、“黒川山城守”である考察できる。冒頭、「申調儀候」と言っている。元親が黒川山城守を調略すると言っているのである。この文脈からは、この時点で金子元宅と黒川山城守は決定的ではないものの「其口此(御)間之儀」と揉めているが、おもてむきには何としてでも対立せず、良好な関係に戻ってほしいと元宅に促している。さらには、「お気づきの通り、(黒川山城守)は、こちらの領分(われらの側)に依るでしょう。」と調略成功に自信を見せてもいる。
・「猶委曲瀧本寺可申入候間不能審候」「早々御使僧旁々御入魂之儀共申盡かたく候」と、金子元宅・長宗我部元親間の使僧による密なやり取り、口頭のみで書面には残せないような重要事案のやり取りがあることが読み取れる。
(独自考察)
本能寺の変による藝羽入眼後の、この時期の藝州・豫州・土州の絶妙な均衡が読み取れる、興味深い文書である。
長宗我部元親は、南予方面には以前より南から軍事侵攻を行う中で、毛利-河野の藝予勢は北から圧力をかけている。その一方、東予方面では藝土入魂に向け、金子元宅をキーマンにして、藝土双方から外交を仕掛けている。
相反する事象が、双方緊張感を持って進められている様子が感じられる。
まさに、「先面むき、いかやうも不相替御入眼可然候」とは、金子-黒川間に顕在化しながらも、河野家との関係、ひいては藝土関係を表す言葉ではなかろうか。
(5)(6)(7)香川親和天霧城入場祝儀関連書状 天正11年(1583年)12月20日
(5)
尚々此表相應之儀疎意有間敷候
御音状本望候如仰五郎次郎之事爰元被罷越候、居住候條、先以珍重候、向後別而可有御入魂候段尤候、仍當東表之儀前體候、藝羽入眼付而、備前境目之儀取々到来候哉、彼表藝衆端城共少々上へ相渡候由候、将又道後表之儀取々族候哉、藝土入魂不相替候條更に珍敷義有間布候、猶追々可申承候條、不能懇筆候 恐々謹言
十二月廿日 香中信景
金備様 御返報
(6)
入城爲祝詞早々御飛脚被差越喜悦至候、最も従是社(コソ)頓而、可申入候處遠境之故、遅々心外に候、殊當家と自先年深重被仰通の由に候條、自今以後猶以可遂淵底候、如承、年内無餘日候條、明春互可展慶候、随而、道後邊之儀、無異議由肝要候委細吉五郎兵衛かたより可申達候間擱筆候 恐々謹言
十二月廿日 香川五郎次郎
金備様 御返報
(7)
尚々當國東表之事珍儀無之候頃猶以物弱に相聞候兩人への御状慥に可相届候
五郎次郎殿爲祝儀早々被仰越御懇之至候、尤従是社可被申入候處、遅々不覃是非候、殊自先年信景別而被仰通由候條、向後猶以不可有御隔心候、随而道後表之儀無異儀候歟、何篇被及聞召通、土州御入魂専一候、貴所様御事不混自餘元親賴敷被存候、次藝州之儀此比備中境目要害數多羽筑へ相渡無正體由候、定而可有其聞候、道後との密談も別儀にては候まじく候可爲手前儀候哉、猶様子承合追而可得御意候 恐々謹言
十二月廿日 吉五貞堯
金備公 御報
(独自考察のポイント)
※2024.8.5修正(4.5.6.→5.6.7)
・ここでの登場人物は金子元宅と、香川信景、香川親和そして吉五貞堯である。元宅からの「兩人への御状」の奏者が吉五貞堯である。この吉五貞堯とは誰か。独自考察は以下の通りである。
【吉五貞堯】吉良弥五良貞俵=本山内記茂慶と考察する。長宗我部元親・吉良親貞の甥にあたる本山茂辰の次男で、親貞の養子となっていた。実兄 本山親茂は元親から偏諱を賜り、長宗我部信親の家老として仕え、伊予進出でも活躍したようであり、その実弟である吉良弥五良貞俵が奏者とは適任である。
・これら書状での最大のポイントは「備前境目之儀」である。「藝衆端城共少々上へ相渡候由」「要害數多羽筑へ相渡」とあるはまさに、中国国分における、毛利氏側要請の領国割譲(伯耆国西部および備中国の高梁川以西を毛利領)の画定と、天正11年8月の毛利氏受諾(人質差出)による境目論の解決であり、これらの書状が【天正11年】のものである裏付けと言える。香川信景は「藝羽入眼」(※対立していた藝州と羽柴が良い関係になった)と言って懸念を示している。なお、ここで“羽”といっており、本能寺の変の後であることが読み取れる。
※2024.8.5修正(2〜3行目;本能寺の変-中国大返し-備中高松城明け渡し後の処置→上記/【天正10年】→【天正11年】)
・上記の「藝羽入眼」による懸念により、「将又道後表之儀取々族候哉、藝土入魂不相替候條更に珍敷義有間布候」「殊自先年信景別而被仰通由候條、向後猶以不可有御隔心候、随而道後表之儀無異儀候歟、何篇被及聞召通、土州御入魂専一候」などと、(2)に通じる内容が記されており、「次藝州之儀〜道後との密談も別儀にては候まじく候」として藝豫関係を懸念しながら、「貴所様御事不混自餘元親賴敷被存候」と元親が金子元宅を藝土入魂再構築のキーマンとして重要視していることが読み取れる。
・もう一つのポイントとしては、「仍當東表之儀前體候」「尚々當國東表之事珍儀無之候頃猶以物弱に相聞候」とあるは、天正11年(1583年)4月の仙石秀久による攻城戦からの撤退(淡路島から小豆島に渡り、喜岡城、屋島城を攻城、撤退)、また小西行長軍による香西浦進軍、上陸できず撤退対する記述であると見ることができる。
※2024.8.5修正(天正10年8月からの第一次十河城の戦い→上記)
(独自考察)
本能寺の変が、中国地方はもとより、四国情勢にも多大なる影響を与えたことが伝わる書状である。
それまで対織田戦線としての藝土入魂が事実上成立していたのに対し、本能寺の変・中国国分による藝羽入眼により情勢変化を生じ、土州方に緊張と不安が生まれている。これを背景として、金子元宅を介した豫土入魂、ひいては藝土入魂の再構築の重要性が高まっていることがよく読み取れるのである。
※2024.8.5修正(中国大返し→中国国分)