澄水記独自訳

天正の陣後百年に書かれた、最も時代の近い軍記物『澄水記』を管理人が独自訳し、これを読み解く。

予州石川家の成立

伊予国新居宇摩二郡の地頭等は、それまで当国河野屋形の支配下にあったが、

近年、河野の家は衰え、二郡への支配も弱まったため、地頭等それぞれの領地を主張し、

各々縁組するなどし、敵味方に分かれ、二郡内での争いは絶えることがなく、村里は荒れる一方であった。

 

大永二年(1522年)に備中国高山の城主 多田満仲の末裔で石川左衛門尉という者がいた。

同国に鴨形の細川という者がおり、石川は数度合戦して細川を打ち負かし、

これによって石川がその威を示して国中を大半切り取り治めていた。

 

この石川左衛門尉の子息 虎之助を「石川伊予守(通昌)」と称し、新居宇摩二郡の旗頭として来て、

新居郡西条庄高峠に新しく城を築き、地頭等その幕下についたことにより、以来、二郡の争いは暫時静止した。

なぜ隣国に名高い武家が多数ある中で、石川を迎えたのか、どのような理由があるのか、

古老の言い伝えはただただ「しっかりと治めることができる者であった」ということであった。

 

石川の一族に石川源太夫という者が、伊予守の家臣として高峠の守りに来た。

また、新居の庄に金子・藤田・松木、西条の庄に近藤・徳永・塩出を「六人の郡衆」呼び、

宇摩郡の薦田・野田を加えて高峠への仲立ちはもっぱら彼らが図るものと世間に聞こえるようになり、

この者たちは後に石川と縁組し、皆一家になったとのことである。

周布郡 黒川家との戦い

その後、享禄年中(1528~31年)に周布郡の黒川と不仲になり、

舩山(小松町新屋敷舟山か)八幡山の間にてやじり、刀の打ち合いが度々あり、

黒川の一族に久米采女・戸田四郎左衛門などという者が討たれ、

味方にも船形の近藤但馬守・吹上の塩出左衛門佐が討死した。

 

ある時、黒川の勢が大勢討たれた時に黒川は心を痛め、

周布郡の内、少々石川の手に落ちたことを黒川は心中穏やかでなく、

徳永・来島と話をして多くの加勢を得て立ち向かい、味方は不意打により散々に追い散らされ、

石川も新居の麓の城まで退却し、またその後に二郡の将に出陣を促し立ち向かい、

味方は勝利を収め、黒川は敗北した。

石川源太夫

後に、高尾の出城をこしらえて石川源太夫を居住させた。

いわゆる高尾城は自然の要害で、防戦には極めて良いところであったので、

これより黒川も立ち向かえず、この後は無事になったということである。

 

この石川源太夫は智慮深い者であり、地頭等まとまって談合の柱に備え、

郡中のもめごとはほとんど彼の評定に任せて解決したので、仁徳ある人であるとして世の皆が崇敬したが、

後には奢るようになり、高峠を蔑ろにし、万事わがままに振る舞い、その上に陰謀の志があったので、

天文(1532~55年)の末に、地頭等は船形に集まり、源太夫をすぐにも討とうと図って、

さて、源太夫へ使いを立て、相談したいことがあると普段通り来臨願うと申し入れた。

源太夫は彼等にだまされているとは夢にもおもわず、装束を整えて船形へ向かった。

 

船形ではこのことに大変悦び、木曳(挽)原に伏兵を二百人ばかり、そこかしこの木陰に隠しておき、

源太夫を今か今かと待って、固唾呑んで笑止なほどとなったところに、

運の尽きた源太夫が月毛の太くたくましい馬に乗って通りかかった。

そこに者共一度に飛び出て横の方から打って掛かった。

いうまでもなく源太夫は剛の者であったので、状況を理解し集中して応戦し、七、八人を斬り伏せ、大勢を負傷させた。

しかし多勢に無勢、ついに討ち取られた。

この源太夫は元来その心は広く、智恵深い者と評判であったので、我が身を顧みず討たれたことは本意であった。

死骸は土中に埋め、石を敷いて墓とした。その墓に榎木が生えて今は大木となっている。

高峠にも嘆き悲しみが広がり、保國寺で十七日観音懺法の法事を執り行ったとのことである。

 

ある者が言うには、高尾の麓 井口というところに墓があり、

源太夫の逆心が漏れ聞こえて、高峠より計略を廻らし、毒を飲ませて殺した。

よって高尾の麓である井口に葬ったので、この墓を源太夫の墓であると言い伝えた。

しかしながらまたある人が語るには、井口の墓は源太夫の嫡男 源吾という者がおり、

源太夫が討たれた後に切腹したこの源吾の墓であるといった。

その両方に理があり、どちらが正しいと判断できないものである。

 

井口の墓に櫻が生えたので、人は皆櫻木の墓と言った。

 

源吾の弟に源六という者がいた、この人は幼年であったため、不憫に思われて高峠より内意があり、

前神寺に預けられ出家させた。僧名を秀海という。後に住職を勤めた。

高尾城と宇高 高橋家

里に伝わるところによると、源太夫滅亡ののち、高尾の城は周布郡の境にあって高峠第一の要害であったので、

普通の人を城主にすることはできないとして、二郡の勇士を選び、

新居の庄 宇高の地頭 高橋美濃守大宅ノ政輝は、文武の達人で心が広くて情け深く、度量の大きい器量であったので、

この人をもって高尾の城主させ、大手の要害を守らせた。

これによって高橋美濃守は宇高の家を親族同名大宅助光親に譲って、妻子従者を引き連れて高尾の城に移り住んだ。

美濃守は元来軍備たくましく、仁恵厚く施したので、近くの里も離れた国境の者も草木までも従うほどに皆一様に服従した。

高尾落城ののち、美濃守の一子で民部ノ大輔政武は、父の遺命に従って戦場を逃れ、忍んで高尾の麓 氷見村に住んだ。

民はその旧恩を慕ってまとまって従い、今の子孫まで氷見村の長であり続けている。

さて、高橋太炊助の子孫も宇高村に残って親類皆繁栄した。元来高橋氏累代宇高の地頭だったことにより、宇高氏と称する子孫もいた。

石川備中守通清

ある時、弓の稽古があった。難波江の家から葛谷において的場を用意していた。

この難波江のなにがしは、奥の内に掻上(城)を構えて居住していた。

さて、毎月日を決めて若侍が集まり、古銭百文目当ての勝負で的を射たのを、石川も出向いて見物した。

この時から、葛谷を射的の谷と呼んだ。

 

それよりのち、天文元年(1532年)に当たって伊予守(通昌)の内室が、生前の(安産)祈願として真言院へ使者を立てられた。

その真言院は古徳常構の霊地として、宝塔は雲を挟み、かわらぶき屋根の仏閣を並べていた。

すぐに本堂に壇をかざり、一千座の薬師の法を勤修した。

誠に瑜伽上乗の浪清く、医王善逝の光が移ったため、安産であった。

男子で虎千代と名付けた。

父母の寵愛深く、二郡の地頭等登城してこれを大層祝った。

この時、薬師の燈明料として、山の下五十畝の土地を真言院へ寄付されたとのことである。

そのあとで、氏神伊曽乃神社へ参詣が有り、ここに徳永因幡守というものが狭間の掻上城に居住しており、

それゆえ、徳永家は当社鎮座の始めから神様もご存じでいらっしゃる家であるとして、参詣に同行した。

そうして、神官が幣帛を捧げ奉り、神楽を奉納し、つつしみ敬い、心を尽くして神のみこころをしずめ奉った。

この時、五十畝の窪田を寄進された。

そうしてまた、(洲之内)奥の内に「東ノ館(土居構)」「西ノ館」という石川の下屋敷(別邸)があった。

「西ノ館」には石川が居住し、「東ノ館」には虎千代が居住した。

ここに野津子の工藤といって堀を廻らせ、水を溜めて居住していた。

「東ノ館」とほど近く、工藤も年若であったので、虎千代と常に遊び、幼なじみであった。

虎千代は次第に成長し、その器量は世に超え、十四歳になった時に、その長寿を招来し祝福するために、天文十四年二月末の五日間、連歌の会を工藤の家で開催した。

すでに参会の日に至って、床の間に天神の御影をかけておごそかであった。

石川親子を上座として連歌に参加の人たちが次第に参集し居並んだ。執筆は讃岐越之助、発句は虎千代で、

「神松や千年を経ても若緑」

敷島(和歌)も、連歌の出合も初めてであったので、気がねすることもなく、一句の風情もなく、ただ心の動くままに言い出した。

石川越前守が申すに、少年の作意には若々しく感じられるといって、一巻を終えた。その巻今でも所持している家がある。長い年月が経ったものであるので、文字も定かに見えず、礼紙に判者 石川越前守也と手替わりにて書き付けがある。そうであるから、その時の歌功者と見える。しかしながらこの越前守の事を他に記したものがない。石川同名なのできっと一家であろう。ある人が言うには、福武に山城の跡があり、ここに居住していたとのこと。しかしながらその敷地は究めて狭く、名の有る者の住むようなところではない。されど、越前守というものはこの地相応の身の上の者であろうか。

ところでまた、讃岐越之助は、石川の祐筆で宿所は長安にあった。才覚のあるものであったのだろう、この度の執筆を仕った。

 

天文二十一年(1552年)には虎千代官途して備中守通清と名乗った。(20歳で元服?)

漁猟の遊びかくあるべきとして、西條の地頭等とともに先ず江渕の塩出若狭守の所に行き、小舟を数十艘用意して、塩出の掘の岸から棹を差し出し、杯を飛ばし踊り狂ってストレス発散した。これ毎年の催しである。

 

その後、弘治二年(1556年)に阿州三好家の女子を備中守(通清)の室に迎え、畑野薦田四郎次郎が出向いて、鍋ノ城にて請取り、これより高峠へ移した。鍋ノ城にこの時居住した者の名が分からず、今近辺の宿老に尋ねたものの、知っているものはいなかった。今度の縁組は轟城に居住した大西道誉という者の才覚であると言われている。

 

永禄元年(1558年)の七月三日に岸払いということが始まった。それゆえ石川高峠へ移って後、山林竹木を弄ぶことを禁じた。これによって常緑樹は青々として高くそびえ、檜や杉の枝は城を覆うほどであった。西條の地頭等は人夫を出して四方の切岸に生え茂っている枝葉荊棘を刈り取ったので、城の景観はとりわけ素晴らしく見えた。これを毎年の課役とした。

 

永禄十二年(1569年)に備中守の息女を金子彦十郎(元宅の幼名)に嫁がせた。その妹(妻・姉妹ではなく本人を指す)は高峠落城の後に川畑甚右衞門と言う者の妻になった。さてこの彦十郎は後に金子備後守元宅となる。

 

その後、元亀三年(1572年)に当たって、土佐国 長宗我部元親が土州一国を打ち従え、破竹の勢いで四国を手中に収めようとしていた。

天正の初め(1573年~)より阿波・讃岐を全て手に入れて、当国は宇和・喜多二郡を攻め抜いて、同十年(1582年)当所へ攻め入ってきた。

ここに備中守は二郡の地頭等を召集して、評定を尽くして、近藤長門守の長子 彦太郎を土佐へ人質に遣わして、本領安堵して侵攻は止んだ。この長門守は前の伊予守の婿であるので、彦太郎は今の備中守(通清)の甥である。人柄に不足はないと言って元親もよくいたわったということだ。

天正十二年(1584年)に備中守の病気がひどく、医術も祈誓の効き目なかった。備中守は日頃から禅法に心を傾け、直指人心を良く把握していた。臨終の時に至り、硯を取り寄せ、筆を染めて最後の頌を書いた。

本末一路 無海無山 雲水何物 虚空是閑

天正十二年十月十七日と書き付けて、この世を去った。一族はこれを悲しみ、民もこれを嘆いた。さて、保國寺玉翁和尚を導師に葬礼が行われ、戒名は「寳勝院殿月山宗輪大居士」、遺骸は寺中に葬り、塔頭は今もある。

ところで此の保國寺は大昔から伽藍の地である。開山は佛通禅師と言い伝えられている。前の八堂の山は虎がひざまずくようであり、後ろは高峠の麓に行きつき、南は峰高く、北は海を湛えている。大河が渕を廻って、右から左に流れるこの上ない眺望の霊区であるので、前の伊予守は常に心を寄せて、時々この禅室を訪れて、上福三十畝、下福五十畝の所を、代々の僧達に与えられた。また、備中守は当寺に寺院を築いて営まれ、今もその跡がある。されば、人は一代にして亡くなり、名は末世に遺る。彼を見て、是を聞くに、ただこの世のものはすべて露や電光のように儚いもので、因果因縁の境界こそ、儚く思われる。

四国征伐開始から天正の陣開戦

そもそも漢の高祖は豊県という所より出て天下一統の王と仰がれ、我が朝の太閤秀吉は辺鄙なところから出て、日本の大将軍の地位に就いたことは不思議なことである。

 

されば天正十三年(1585年)春の頃、秀吉公が羽柴筑前守であった時、四国退治として軍勢を差し向けられた。

当地へは芸州毛利の一族 小早川左衛門佐隆景を大将として中国勢3万余騎を引き連れて兵船数百艘に乗って出発した。このことは諸国に知れ渡り、高峠の騒動は喩えようもない。備中守子息虎竹は当年八歳になっていた。

虎竹が幼年であるので、昨年備中守卒去の後は、近藤長門守が後見となっており、羽檄を飛ばして二郡の武士を招き集め、さてこの度の大事如何にあるべきかと評議した。

されば秀吉公の鉾先に当たっては、どれほどの軍勢が集まるであろうか、大敵を見て旗を巻くのも武士の習い、あえて恥じることはない。しかしながら、土佐へ人質を取られながら、また中国へ降参するのもまったく口惜しい事である。この事は皆、心の中に浮かんでいたけれども、他に譲って言葉にせず、はたまた長門守の心の内を推し量って不憫に思い、一同声を上げることなく落ち着いてしまった。

 

ここに金子備後守元宅が進み出て言うには、

「さても身分の低い武士ほど浅ましい者はいない。昨日は長宗我部に手を下げ、今日は小早川に腰を屈め、土佐の人質を振り捨て、他人に尻口を見せる事もまったく是非もない事である。(一同には関係のない事だが私は、)所詮眉をひそめて生きるよりは、討ち死にして名を後の代に顕すよりほかにあろうはずがない。」

と言って、座敷をキッと見渡したらば、類は友を呼ぶとかいうようなありさまで、列座の人々は兼ねてから言い合わせていたように誰もがこう思うといって皆々すっかりその気になったことこそ、ただこれ高峠滅亡の時が極まったものである。そもそも彼等は誠に小身者共ではあるが、ひとえに武士の家の本望であると、じきに死ぬことを知りながら、義に依って命を惜しまない事は殊勝であるとして、聞くものは皆感涙を流した。

その後に、軍の評定があって勢揃えがあり、

その金子備後守源元宅を始めとして、弟の対馬守源元春、一族に真鍋佐渡守源安政(家綱の長男)、野ノ下右衛門佐源勝正(名古城)、加藤彦右衛門(御代島城/加藤三家;民部正・清太夫と)、藤原康時、

麓ノ城に松木三河守菅原重真とその子、新之丞菅原重宗、一族に塩見三郎兵衛菅原時光、

岡崎の城主、藤田大隈守藤原重利(俊忠;山城守芳雄の子)、一族に矢野右馬助藤原家成、

畑野の城に薦田四郎兵衛橘成道、一族に上野五郎兵衛門橘義成、

入野の城に横尾山城守平祐安、

渋柿の城に薦田市之丞橘助次、

(大ノ城に?)加地三郎左衛門源重綱(と上記の上野五郎兵衛門橘義成)、

(野田城主)野田右京亮源実信、

下山一党、都合其の勢 千八百余騎、

その他、大保木山 寺川丹後守、一族に黒瀬飛騨守を相加えて高尾城へ出発した。

城主 高橋美濃守大宅ノ政輝は諸将に対面し、軍の運用や、あちこちの砦の守備などに至るまで、厳しく下知して勇み進んで振る舞い、その勢いはゆるむことなく、素晴らしい働きをした。

噂によると、鍋・轟両城の者共、催促に従わなかったのか、今回の到着に漏れた。また、下山一党と云う者、下山でこれを問うたが(出発は)未決であった。その中の年老いた者が言うには、昔、薦田の一家が此の所を領していたことがあった。そうであるので、下山の一党と云うのは、薦田の一族かと言った。

さて、西条の人々には、近藤長門守藤原尚盛をはじめとして、その子 彦七郎藤原尚高、

徳永修理亮源重安、その子 甚之丞源重光、

塩出紀伊守源忠重、その子 善左衛門源吉重、

黒岩に越智信濃守越智直勝、

早川に秦ノ備前守秦元治、

工藤兵部藤原光信、

難波江内蔵助越智祐勝、

白石若狭守越智信元、

丹民部丹治清光、

久門甚五郎大江直定、都合千余騎、全国の軍勢を引き請ける戦であるので、千に一つも勝利は無いであろうと、家々に大樽を担ぎ込み酒盛りをして、その身は最後の出で立ち、綺麗に鎧を着て、家々の旗をあげ、譜代恩顧の者共我劣らじと高峠へ籠城した。この者共の有様は、風待つほどの露よりも危うく見えたものである。

高尾城の戦い

やがて、高尾には麓に柵を設置し、領民の家の戸板なども合わせて囲いとし、夜は篝火を焼き、寄せ手を待った。

思った通り、中国勢が近づいてきて、来島今治の沖より平地島・龍宮山の辺りまで押し寄せてきた。数百の兵船、船首と船尾に槍・長刀を立て並べたので、海上がたちまちに阿修羅城のごとくなった。

隆景は兵達に向かって言った。「元来、新居宇摩の者共は、心あくまで大胆で恐れを知らず、土民下部に至るまでも、長脇差を帯びて拳を握り、他人の風下に立たないことを旨とすると聞いている。軽はずみに敵の地へ乱れ入って無駄死にをするな。先ず高尾の出城を攻め落とせや。」と言って、

先陣は三村紀伊守、庄野宮若丸、植木孫左衛門尉である。軍勢一度に渚へ下って、高尾の麓 八幡山陣ノ尾近く押し寄せて、互いに鬨の声を揚げた。敵味方大勢であったので、その響きは雷が落ちるようであり、山岳このために崩れ、海岸は一瞬に砕けるかと思うほどであった。

軍兵は入れ替わりに境に出向いて先ず両軍互いに矢を射合って戦い、その後、白兵戦となった。

ここに、宇高左馬進、矢野久之丞、野田新九郎、今村八郎兵衛、大西平内、その他屈強の若者共、一騎当千の働きをして、敵も味方も目を驚かせたが、ある者は矢を負い、またある者は傷を蒙って、終には皆討ち死にしてしまった。

中でも真鍋孫太郎(兼綱;萩藩閥閲録にも記載あり)と言って二郡でも有名な強者の男がいた。五町三町(350~550mほど)隔てても飛鳥や下げ針なども射落とす名人がいた。日々の達者はこの時のためにこそであると言って、小柴の陰に忍び寄って能き敵を構えて待っていた。ちょうどその時、主は誰かわからないが、櫨匂威の鎧に薄紫の縨をかけ、白栗毛の馬に青房をかけて乗っている者が、その手勢と見える百騎ほどの中を閑閑と歩んできた。孫太郎はこれを射ようと思い、その距離が思った以上に離れていたので、鎧の高紐をはずして繋藤の弓取り直して絃を喰い締め、箙より金磁頭(鏃)を取り出して、十三束を暑さを忘れるほどに引き絞り切って放った。その矢は外さず、敵の胸板に命中し、血煙を出して馬から真っ逆さまに落ちた。これをはじめとして、「金子の一族で真鍋孫太郎というものである!これを見よ!」と言って、指詰め引き詰め散々に射った。矢場に死んだ敵は十二、三人であった。寄せ手は堪えかねて、我先にと引き退いた。矢種尽きて後は、長刀を閃かして敵中に駆け入って、蜘手十文字に切って廻ったが、数多の深手を負い、次第に疲れて終に大勢に討ち伏せられた。「天晴れ大剛の者である。」と敵も称美した。

ここに人の悲しみや同情を集めた事があった。真鍋越後之介(政綱)と云うものの子に、兄は孫九郎(亮綱)と云い十六歳に、弟は孫十郎と云い十三歳になっていたが、父が戦場へ赴く時、不憫に思い、固く制したけれども、後を慕って兄弟打ち連なって高尾へすがり来たので、父も仕方なくそのままにしておいた。「栴檀は双葉より芳し」というのは彼らのことである。されば戦の最中に孫十郎が父の元に走ってきて父に向かって涙ぐんで言った。「他ならぬ兄の孫九郎は敵に討ち入り戦って首は取っておられたものの、大勢の敵に打ち囲まれ、槍に貫かれ討死になされました。」と言ったので、父はキッと睨み、「今此の時に臨んで未練がましい事を言うものではない。急ぎ兄の仇を討って参れ!」と怒った。孫十郎はカラカラと笑い、また取って返して寄手の中へ駆け入るところまでは見えたが、その後は行方知れずになった。父は彼の後を見遣って涙をハラハラと流して、「二人の子供を先立って、いつ迄跡に残っているのだ。南無阿弥陀仏。」と諸共に跡を追って斬り入り、共に討たれてしまった。

さて、高尾の城は白雲が峯を埋め、青岩が路を遮っているので、味方が小勢といえども寄せ手は攻めあぐんでいるように見えたところに、城の後ろ五、六町(550~650m)隔てた小高いところがあり、寄せ手の中に新居見、木梨、戸田などと云うものの勢、三百人ほどで切川の奥から岩を伝い、葛を手繰って終にそこに至り、鉄砲数百挺を雨あられのごとく放ち掛けて攻めた(威嚇射撃)ところ、兼ねてからの取り決め通り、大手の勢、「それ!今だ、懸かれ!」と言って、無二無三に取り懸かった。味方もこれを最後と防ぎ戦った。されども寄せ手は新手を入れ替え入れ替え息もつかせず攻めている間、数度の荒手に宗徒の味方(参集した半農半兵の武装農民か)過分に討たれ、敵も三百余騎討死にした。

里城を固めていた高橋美濃守も討死し、大久保砦を守っていた大久保四郎兵衛も攻め滅ぼされた。

金子も心は剛であるものの、前後の大敵に一族郎等も大分討たれ、その身も兜の吹返しや鎧の菱縫などに矢を数多射立てられて弱っていたので、叶わないと思い、城に火を掛けて猛火の中に入り腹を十文字に掻き切って自害したとされる。

 

(里伝)

民話によると、この時、高橋美濃守大宅政輝の子息で民部大輔政武を呼んで(金子元宅は)他言無用と言い、「この度の合戦はもとより必勝を覚悟したものではない。じっくりと今の世の有様を思うに、長宗我部元親であっても秀吉公に敵対できるものではなかろう。終には秀吉公が天下人となられるであろう。そうすれば元親も滅亡するか、そうでなくても降参するであろう。その時にいたっては、我らの今度の武功を誰が称美するであろうか。であれば無駄な生害とは思うものの、この場に至って諸傍輩に対し、後世の人も嘲るところもあるであろうから私はいずれにせよ(皆と)同じくこの場所で自害する。その方は、知っている事の詳細を命ある間、なんとかこの場を忍び出て我の後世も弔い、名字だけでも子孫へ伝えてくれと、余儀なく言い含め、その身は里城で切腹した。遺骸をそのままその所に埋葬し、墓を築き、後代子孫の者共が石碑を建て今も厳然とある。金子備後守源元宅はなんとか故郷の金子城に帰り、快く切腹しようと思い、敗れた味方に紛れて東の方へ落ちて行ったが、新居の庄 萩生村にて敵に追い詰められ、家来や従者は皆討死し、その身は一人、大勢に渡り合ってひとまとめに追い散らし、道端の榎木の陰で自害した。その榎、今に萩生村内 岸の下という所にあり、その後、子孫同族の真鍋氏の者共、金子村へ葬り寺院を建立す、元宅の戒名を取って寺の名とした、今の金子村慈眼寺がこれである。

やがて、隆景は高尾城落城のその日、吉祥寺の上にある往生が峰に登って、高峠の城を見渡し、攻め口を(家臣と)見交わし戦の話をしてから、兵たちに下知をした。

民話によると吉祥寺山は高峠の峰続き前神寺の神拝峰を過ぎてはるかに高い峰であるので、この峰に登れば高峠の城門を見下ろせるため、隆景はこの峰に登って軍配を評定したのである。ところで、この吉祥寺と申すは四国八十八箇所の一箇寺であって、高祖大師の旧跡であるので、昔からすこぶる繁昌の伽藍である。伝説によると、いにしえこの山に山猫の障害があって寺院がやや衰えた。それなのに今度の兵乱に寺のすべての堂塔ことごとく消失した。これによって、本尊毘沙門天を限りなく静々と守り奉り、氷見の人の住むところに遷し奉ったのが、今の吉祥寺である。あれほどの霊場が雉兎の栖に荒れ果てたことは、道義の衰えた末の世とはいえ、呆れるほどひどいものだ。

高尾城落城から野々市原の戦い

さて、高峠には兼ねて衆議をして城主石川虎竹を土州に逃がし、長宗我部元親へこの度の急変を注進させた。譜代相伝の侍を七、八人を同行させた。その他の者どもは、大将を逃がして気に掛かることがなくなり、到底叶わないもののために、数代の居城を敵に放火され、軍馬の蹄に蹂躙されるのも無念であるとして、極限状態に陥り、城に火をかけ、一騎も残らず討って出た。油尽きて燈火が消えようとしている時に余光が障子を通るように気の毒でかわいそうな事共である。

論評には、敵が未だ攻めてきていないのに、本城を焼亡するのはうろたえる様子であるというものもあり、いやいや、気を緩める事なく、敵に放火されるのは無念であるので、非常にすぐれているというものもある。しかしながら言うまでもなく、協力しないで、命を永らえて虎竹を世に立てる分別がないのは、勇ましいばかりで智の至らない者共である。彼らには決して与するべきではない。それは孔子の語にも“人として遠くまで見通す考えが無ければ、必ず近いところで心配事が出てくる。”とおっしゃっておられるのは、この人々のことであると言って、謗る者も多いということだ。

そのように高峠は炎上して、燃えくずは谷風に乗って余煙は四方に覆ったので、これは劫火のために一瞬にして灰になって揚がるようである。西条の者共はこれを見て、「ああっ!主家の皆々様はすでに討たれてしまった。」と嘆き悲しむ有様は焦熱大焦熱地獄の罪人とも違いがなく、可哀想なことであると思われる。そのような中、虎竹は市倉にて旅の装束を整え、谷川では肩に乗せられ、険しい道では手を取られて進んだが、桜ケ頭にて跡を見渡すと、早くも高峠に火の手が上がっておるぞ、冷酷なことである。それにしても住み慣れたところのあれやこれやと言い出してさめざめと泣かれた。心の内不憫であることは言い尽くすことができない。

 

ところで、長宗我部より侍大将に軍兵百余騎、足軽三百人を引き連れ、高峠の加勢として山越えしてきた。桑瀬山というところまで駆けてきた。しかしながら、高峠が落城したと聞いたので、力及ばずこれより取って返した。

 

その少し前、中国勢は高尾の出城を押し潰し、余勢を駆って高峠を攻め落とそうと、先陣は既に伊我里川(猪狩川)に着き、後陣は八幡山白坪に支えて、この一帯に少しの隙もなく充満した。その様子は朝日に甲の星が輝くと、錦を敷き詰めたように家々の旗の紋が、山から吹き降ろす風に靡き、雲か霞のように神秘的である。味方は高峠を打って出て、楢の木に馳せ付けた。戦場は野々市原である。寄せ手が鬨の声を揚げれば、味方も殊勝にもこれに合わせた。鬨の音が静まってあちこちには槍を合わせ突きつ尽かれつ、汗馬馳違い、引き組み、首を取るもあり、取られるもあり、のちには徒立ちになって、東西に集まったり散ったり、南北に追い廻り、黒煙を立てて攻め戦った。

その中に、徳永甚九郎、塩出善五郎一族に、菅善兵衛、難波江藤太夫、工藤の郎党に、岸源五郎、丹ノ一家に、東條五郎四郎などなどという者共、大勢の中へ掛け入り、首を取って投げ捨て捨てて働き、ついに一隊列を打ち破った。しかしながら、増える敵に合ってしまったのであろうか、この者共の死骸はみな、あぜ道やどぶ川などに倒れてあったのを、後にゆかりのある者共が尋ね求めて、その空しきむくろを隠し納めて弔ったということだ。

またここに真言院保國寺の寺僧共を始めとして、二郡の荒法師等、解脱同相の衣を脱いで、邪見無慙の鎧を着て戦場へ駆け出て無理なことをし出して、寄せ手に笑われたことはいたわしい。

ここに、得定寺の東庵に、任瑞と言って、剛強の法師がいた。十人ばかりで持つような大石を軽々と提げて、敵が大勢控えている中へ投げ掛け、投げ掛け、兜の真向、涎掛、当たりどころが良くても、生きて帰る敵はいなかったということである。しかしながら、寄せ手の中に、楢崎六郎という者、洗革の大鎧に五枚甲の緒を締め、大手を広げて飛びかかり、引き組み、捕えたり外れたり、押し合っていた。敵も味方も見物相撲の場のごとく取り囲んで見守っていたが、六郎の力が強く、任瑞を川岸へ押し付け、首を取って差し上げた。寄せ手の者共は悦んで、「取ったりや瓢箪」といったので、六郎は打ち笑い、「是も國の土産に取って帰り、山椒入れにしよう」と興じたので、軍中はドッと笑った。

そんなわけで、この一乱に、真言院保國寺をはじめ、二郡の神社仏閣は一宇も残らず兵火に掛かって寺物旧記に至るまで、悉く灰塵となってしまった。とりわけ、八幡山は大手口にて槍合わせの場となったので、八幡三所の御宮ならびに、近辺の社家在家に至るまで先立って消失した。吉祥寺、前神寺は、高尾高峠の両間に在って、要害にふさわしい山であったので、殊に目掛けて火を放たれた。世はすでに澆季に及ぶと言いながらも、呆れるほどひどいことである。

(里伝)

民話に言われるには、この時、金子村一宮村大明神も放火されたが、敵帰国の後、霊験著しいことがあって、長門の國に神社を祭り奉ったそうで、今でも御社は長門の國にあるという。

 

このようにして、味方の者共、今日を限りの命であると思い定めて、子は討たれても親はこれを助けず、親は死んでも、子はこれを顧みず、死に物狂いに狂ったので、さすがの毛利勢も二百騎余り討たれ、攻めあぐんでいるように見えた。味方も残りわずかになった。血は雑草を染めて紅のようで、しかばねは道端に横たわって塊と同じであった。そうであるから、戦が終わった後、数ヶ月経ってこの原に萌え出た草々は皆これ、生臭かったということだ。

 

さて、隆景が軍兵に向かって言うには、「是の躰の小勢にこれほどの時をかけただけでなく、まして、味方は大分討たせてしまったことは残念である。ただ一押しにもみ破れ!」と言って軍旗を振り上げて下知したので、その威勢に掛け立てられて、礫打まで引き退いた。

大将隆景は諸勢を集めて首実検して帳面に記し、極めて大きい穴を掘らせ、此の間討ち取ったところの首共を悉く、一所に埋葬し、隆景はその墓に向かって兜を脱ぎ、鎧の上に掛落を掛けて、杖を取って墓の上を一打ちして、

「討つも討たるるも皆夢なり、早くも覚めたり汝らが夢」

と高らかに唱ったと言い伝えられている。その墓は今も首塚と言って野々市原にある。

 

寄せ手は勝ちに乗じて敗北の者共を一騎も漏らさじと追い掛けた。

ここに金子対馬守の子に孫八郎という者がいた。寄せ手は先走った孫八郎を目に留め、「汚いぞ!取って返せ!」と呼んだ。「心得た!」と取って返し、槍を合わせて敵を突き伏せた。ここに星嘉二郎兵衛という者、ちょうどその時に居合わせ、走り寄ってやがて首を押し落としたので、孫八郎はこれを取って引っ提げ、鞍の前輪に結び付け、飛び乗って落ち延びた。この首を誰かに見せようと取って帰ったが、後、鴨川の流れの速いところに打ち向かってだんぶと捨て、「汝故郷へ流れ帰って妻子共に逢えや」と独り言を言ったということだ。

近藤三郎兵衛という者がいた。野々市原の合戦で、村上五郎兵衛という者の放つ矢に、左の足を射られ、よろめきよろめき引いたが、とても落ち延びることは叶うまいと思い、礫打で半段ほど踏み揚がり、柴原に隠れたが、敵五、六騎馳せ来たり、これを見つけて分け入ってきた。三郎兵衛、今は是迄と思って、太刀を抜き持って、待ち掛けて不意に立ち上がり、向かう敵の膝を薙ぎ倒した。しかしながら、よろよろとしているので、残る敵共は落ち重なって、ついに首を掻かれた。

その後、寄せ手一面になって平落としに押し集めた。丹民部を始めとして、命知らずの不敵者共、引き退き、一励み戦って、討ち死にする者が多かった。ここでもまた敵も名のある侍を大勢失ったということである。さて、丹民部は吹上六郎という者と引き組んで刺し違え共に死んだとのことである。

(里伝)

民話では、この丹民部の墓は西泉村の路頭にあり、同所に墓が三つ並んである。内、二つは若い郎党の墓ともいう、または、仲間の墓ともいわれる。

嗚呼、これ如何なる業報の天運に当たった時であろうか、天正十三年乙酉秋七月二日の未明より八幡山陣ノ尾に戦始まり、同じく十七日高尾落城と言われている。さてまた、野々市原礫打の懸け合いは、同じく十八日という者もある。しかしながら、この時討ち死にした者共の子孫は今、民間に残って居る。そうであるので、高峠落城の日といって先祖に香花を手向けるのは八月六日である。(→四国攻め終戦日ではないか?)

 

天和四甲子年夏六月 日

高峠落城以来今年迄相当百年忌也

澄水記 終