石川虎竹

高峠落城から無事、保国寺和尚 玉翁に手を引かれ井野川 延命寺へ落ち、そこから岡豊へ入った石川虎竹とは誰か。

(※保國寺縁起曰、当山四十七代玉翁禅師、天正十三乙酉歳、曁于高尾・高峠城落、携于虎武之一子虎千代竄于土州井之川、… )→虎武、虎千代の箇所には齟齬がある。

 

落ちた先「井野川 延命寺」、大川村の文化財に「延命寺跡」とあり、「寺の建立年代は不明だが、寛延四年(1751)寺床崩壊により大平部落に移転したといわれる。」とある。

この井野川は、「大藪」と「高野」の中間であり、土佐の援軍といわれる高野義光と伊東近江守祐晴と、石川虎竹の土佐落ちが無関係とは思えないのである。

伊予石川家系譜

初代石川伊予守 石川通昌の出自は、別頁「石川氏の台頭」(リンク)に記した通り、管理人は考察する。

この点に於いては、「金子備後守元宅」著者 白石友治氏の論に反し、「澄水記」に沿う。

 

〈備中国〉

石川左衛門尉

〈伊予国〉

■石川伊予守通昌(虎之助);1522年に備中国より高峠に来る。この時、虎之助から伊予守通昌に元服、15歳前後と考えれば、子 通清は10年後、通昌25歳前後で生まれたか。

■石川備中守通清(虎千代)1532-1584/52歳卒;1556年に阿州三好家の女子を室に迎える。1569年息女を金子元宅へ嫁がせる。

■石川刑部勝重(のちに通勝)天正6年金子氏らの奔走により(※元親に降る)長宗我部元親の姪(親泰の娘)婿となる。(※小松邑誌)同年7月28日備中守勝重より新居郡徳重を金子元宅に与える。(※金子文書)/天正7年9月3日元親から元宅へ書状。人質交換により近藤彦太郎に代わり、同じく真鍋兼信に代わる金子専太郎とともに、土佐へ人質として赴く。(※金子文書)

■石川虎竹(のちに伝兵衛通利);天正の陣の時8歳(天正6年生※小松邑誌/冬生まれか?)-慶安元年(1648)70歳卒か。

(※以下は、白石友治著より)

〈伊予→土佐→伊予→肥前→土佐〉

石川彦左衛門通貞

石川小左衛門通政

石川源次通載

石川勝之進通胤

石川勇右衛門通儀

石川小左衛門通理

石川萬次通潔

石川貞之助通尋

千町の民話などに見る石川虎竹の土佐落ちとその後

桜峠の話

船形から千町に抜ける土佐街道を、高峠城主、まだ8歳の若君・虎竹丸と母君の菊姫、保国寺の和尚に若君お守役の老武者が、土佐へ落ち延びようとしていました。

 

桜峠にさしかかった時、高峠城の天守閣から黒煙と火が噴出していたのです。

 

それを見た若君・虎竹丸は、お守役の老武者の背中にだかれ、涙をとめどもなく流していました。

菊姫は手に桜の杖を持って、わなわな震えながら泣きじゃくりました。震えた手は桜の杖を地中深く深く埋めてしまったのです。

 

そこへ土佐の援軍・伊藤近江守祐晴一行と出くわすのです。

 

とりあえず、伊藤近江守祐晴は千町の土居平にお連れして「私らは、ここで追ってくる敵をくい止めるから、さきに土佐へ落ち延びてください」と云って送り出しました。

 

時がたち、落城した城を眺めて嗚咽したあの桜の杖が、根を張り花びらをつける立派な木になりました。

それで、ここを土地の人は「桜峠(サクラント)」と云っております。

筋神さん

豊臣秀吉が攻めてきたときには、金子備後守元宅の妻子もこの道を通り土佐へ逃れています。

 

また、伊曾野神社のご神体も土佐の本川村に避難しています。

その他の神社や寺や、それぞれの武将の奥方も避難したと思われます。

 

その中に高峠城主・石川備中守通清の奥方・菊姫がいました。

 

菊姫は加茂の中之池まできましたが、足の筋が痛くて動けなくなりました。

 

しばらく留まっていましたが、亡くなったので神様としてお祭りました。

 

この神様を俗に筋神さんと呼んでいます。

 

菊姫はお酒が好きでしたので、

お酒を供えるとご利益があるそうです。

土佐以降の石川虎竹 ※「金子備後守元宅(白石友治著)(原文ママ齟齬あり)」より

石川虎竹丸は前にも述べたように当時八歳であったが、

保國寺の玉翁禅師と家臣数輩に護られて、

千町山より川来須・黒瀧・桑瀬・日野浦を経て井野川園明寺に落ち、

それより岡豊に入り其の父刑部通勝と共に長宗我部家の厚遇を受けたが、

 

盛親没落後伊予に出て福島左衛門太夫正則に仕え石川伝兵衛通利と称し、

三百石を領したが其の後福島家没落後、肥前國松平丹後守に仕えた、

 

然るに故あって致仕し寛永十九年土佐に帰り、

本山八助、安養寺吉右衛門等の斡旋により、

野中主計に申入れ、遂に大守山内忠義公の御聞に達し身元吟味の上、

寛永廿年未二月廿日召出され拾人扶持を賜りしが、

 

正保三戌年知行貳百石に加増せられ、御馬廻を仰付けられたが、

慶安元年子十二月廿九日病死した。

石川虎竹(伝兵衛 通利)とは

管理人による考察だが、

1)先ずもって、無事に土佐へ落ち延び、その後も各所へ仕官し、子孫も遺していることから、

金子元宅による戦術は成功したと言って良いと考える。

 

2)なんと!石川虎竹は元服後、仮名を「伝兵衛」と称した。これは金子元宅と同じ仮名である。

このことからも、石川虎竹は、天下の軍勢に攻められながらも、

自分と、新居・宇摩の“血と地”をしっかりと繋いだ、金子元宅を敬愛していたと想像するのである。

 

3)金子元宅による天正の陣開戦を、無謀であるかのように言う書も少なくないが、

管理人はこれを否定するものである。金子元宅の真の狙いを、その戦略を理解していた一人が、

石川虎竹であったと思うのである。