片岡光綱
越知町史(296頁)の「片岡氏の系譜について」には、片岡氏に関しての史料は歴史学的に確認されるものは何もないと書かれている。
要は一次史料が存在しないのである。
よってここでは、「八幡荘伝承記」や「片岡物語」、「片岡盛衰記」その他、各地の片岡家に所蔵の「系図」を取り上げた『越知町史』や『佐川町史』の記述、また、明治に著された高木孫四郎『片岡城』などの記述を元に、独自考察する。
天正の陣 土佐の援軍 片岡光綱
【天正12年8月18日】に滝本寺栄音により金子元宅へ伝えられた長宗我部元親の意向(金子文書)の内の一つに、「〜略〜其表人数渡海ハ、親泰早々可被打出候、其内此方よりも一人は確有仁可被申付候、芸道後、羽柴一味にて候共、〜略〜」とあり、
この時点で元親は「毛利家と河野家は羽柴麾下であり、毛利の軍勢が渡海してきたら早々に香宗我部親泰が打ち出すと共に、元親からも一人は援軍に行かせる」と確約している。
これは天正の陣においてもやはり“後詰”の重要性が高いことの裏付けとも言える。
結果、香宗我部親泰は金子への援軍とはならず、元親が命じて行かせた援軍がこの片岡光綱であると考察される。
天正の陣 金子陣 高尾城への援軍 片岡光綱
天正の陣 戦闘経過を一次史料からの私の独自考察では、小早川・吉川の軍勢と新居郡の将士が攻防戦を繰り広げたのは高尾城の戦いのみである。(※別頁参照)
小早川軍にとっての天正の陣における初戦となったのは、高尾城と丸山城を包囲した直後にその後巻きに攻めてきた長宗我部の援軍との一戦である。(※萩藩閥閲録 巻10ノ2 (129)小早川家文書)
この他に、一次史料に見える天正の陣への土佐援軍は花房新兵衛であり(※別頁参照)、小早川秀包公手控によると、その場所は金子本城であると読み解けるため、上記の一戦を行ったのが、この片岡光綱であると考えられる。
上記一次史料を元とした考察を踏まえ、片岡氏関係の二次史料を読み解いてみると、
高木孫四郎編『片岡城』考証に掲載されている、
「藤田家系図云」の二代藤田馬之祐藤原政平に、
「天正十三年左衛門尉様豫州金子陣ニ御立越自分儀其節城内爲堅相守居候處主君御打死赴承之依右直様横目役四人召連豫州表へ罷越西條道筋ニテ主君御首ニ行逢御供仕寺川口へ罷帰是ヨリ片岡村迄御道筋、、、、何ノ世迄モ右村々相慎可祭者也七月二十五日樅木山於瑞泉寺冥途之爲御供切腹瑞泉寺住持ヘ申置父源左衛門墓地竹小路森山在何ノ世迄モ大切ニ可祭者也此一字書世忰十三郎ヘ可渡者也
浮き沈む世をはふるともしめ置し 筧の水はわれに手向けよ
珠光院一如源覺居士」
とある。
同じく、
「片岡系譜云」に、
「〜略〜、親光(本ノママ)爲伊豫國高尾金子城加勢、以士卒五百余籠城、毛利氏兵攻之、親光與城主金子氏、盡守城謀、屢雖有功、同年七月七日城陥、城主金子氏死之、親光亦力戦死、家臣岡林氏携遺骸、歸土州、葬干吾川郡片岡云、」
とある。
また同じく、
「藤田右馬介の殉死」に、
藤田右馬介は、吾川郡片岡の城主片岡左衛門大夫光綱の家老なりき、天正十三年豊臣秀吉大軍を起こして、四國に向はしめたれば、長宗我部元親は片岡をして、伊豫高尾の城主金子備後守を援助せしめたり、片岡は發するに臨みて、家老藤田を城地の留守居たらしむ、かくて、片岡は高尾に着し、金子と倶に、其の城に籠りて上方勢に當り、防戦克く力めたりしが、衆寡の勢、竟に城は保ち難く、敢へなく戦死を遂げたる由、片岡に使者歸り報じたれば、留守居藤田は、急き伊豫路に馳せ向ひしが、途にて、竹内又左衛門、上村孫左衛門、安並玄蕃、岡林彦九郎、岡林彦十郎等の諸臣、主君片岡の亡き骸を守護して歸るに出逢ひ、倶に扈従して片岡に歸るや式の如く、懇に葬式祭祀を營みし後、藤田は一人樅の木の瑞泉寺に入り、腹掻き切りて殉死を遂げぬ、〜略〜」
とある。
長宗我部元親降伏の遠因と言ってよい片岡光綱による後詰め決戦敗北と討死
以上、一次史料と二次史料を併せて読み解くと、
【片岡光綱は、長宗我部元親に、金子元宅への援軍を命じられ、金子元宅の籠る高尾城へ来援、七月十四日(※二次史料記載の七月七日討死、高尾城も同日落城というは明らかな間違いである)、小早川隆景と吉川元長が高尾城と丸山城を包囲した際、その後巻きに小早川隆景の陣へ攻め込み、天正の陣初戦に於いて、討ち取られた。】
というのが、私(管理人)の独自考察である。
さらにこの片岡光綱による後詰め決戦地を現在の石岡神社西の尾の「宮ノ下」であると考察し、
その詳細は「八幡山陣ノ尾の戦い」の頁にまとめてあるので、参照願いたい。
天正の陣はもちろん、四国征伐の戦局全体から見ても、長宗我部元親からの正式な援軍として派兵された片岡光綱による“後詰め決戦”の敗北、片岡光綱討死の報は、長宗我部元親の降伏判断の遠因になったと言ってよいと独自考察する。
これは、他の戦(武田勝頼による高天神城の戦いや長篠の戦いなど)での後詰の重要性を見てもわかることで、天正の陣においては、長宗我部軍諸将の戦意喪失効果が少なくなかった考えて良いのである。