伊藤嘉右衛門家定
金子城 家老 伊藤嘉右衛門家定とは誰か
天正の陣後、須領に住みつき、
金子備後守元宅250回忌にはその子孫7代目伊藤嘉右衛門が、
慈眼寺に金子備後守元宅を供養する「法華塔」を建立した、
伊藤嘉右衛門家定とは誰か。
かね姫らの土佐落ちを助け、須領に土着した伊藤嘉右衛門家定
金子城落城時、金子元宅の娘、かね姫達を連れ、無事に土佐へ逃した家老の伊藤嘉右衛門家定。
(※平成24年12月1日角野公民館だより)
その後、須領に土着し、その子孫が上記の通り慈眼寺に金子元宅を供養したのである。
家老職であり、姫達を土佐に逃すという重責を担う将でありながら、
金子元宅関連の書物にもその名が上がることはほとんどなく、
その足跡が謎に包まれるこの伊藤嘉右衛門家定とはどのような人物か、以下に独自考察を行う。
長宗我部家より新居郡 萩生に知行五百石を得た土佐 大藪伊藤氏
大川村誌によると、長宗我部盛親の代に、盛の一字を与えられ、盛宗と改名、
先祖以来の地である大藪の地名を氏として、大藪紀伊守と称した大川 伊藤家十一代 祐宗の知行は、
一、現米五百俵(三斗入)
一、知行百三十石、吉良氏の落城に際し、軍功によって吾川郡長浜で与えられた。
一、知行五十石、佐川城(松尾城の誤りか?)主中村氏の降伏により、高岡郡黒岩で与えられた。
一、知行百三十石、津野氏攻撃に従軍し軍功により土佐江ノ口で与えられた。
一、知行五百石、伊予へ出陣した際、先手となって数カ所の城を攻め、勝利を得たことによって伊予新居郡萩生で与えられた。
以上、知行として八百十石を得ていた。とある。
このうち、高岡郡黒岩での知行は、
「中村氏の婿となっていた久武内蔵助と緊密な関係にあったので、内蔵助の推挙によるのであろうか」
との記述もある。
この久武内蔵助親直は、長宗我部家重臣で、1579年に兄の親信が戦死すると遺領を継ぎ土佐佐川城主となり、
伊予軍代となった。
また、この高岡郡黒岩は、片岡氏の本拠でもある。
片岡光綱公の父、茂光へは、早くから長宗我部国親が自身の妹を嫁がせ、好を通じており、
その後、茂光の子 光綱は、侵攻してきた長宗我部元親へ1571年に服従。
これは、松尾城主中村氏が長宗我部氏に降り、久武内蔵助が佐川に入った年と同じである。
(上記通り、大藪伊藤氏にも知行が与えられている)
ここに、伊予軍代となる久武氏、金子城への援軍となる片岡氏、
そして、新居郡萩生に知行を得る伊藤氏の縁が繋がるのである。
新居郡 萩生に赴任した大藪伊藤氏の一族 伊藤嘉右衛門家定
上記の知行と時系列から考察し、
伊藤嘉右衛門家定は、大川村・本川村五党の一角、大藪伊藤氏の一族であると考える。
では、大藪伊藤氏へ知行として与えられた新居郡 萩生へ伊藤嘉右衛門家定が赴任したのはいつか?
上記より、1571年以降であろうことは間違いなく、
また、知行を与えられるからには、新居郡が長宗我部に降った後であろうことも間違いない。
新居郡から土佐へ人質が出され始めたのは1578年。
そして、高峠から石川勝重、金子からは専太郎と、盟主の長子が土佐へ人質となり、
完全に新居郡が長宗我部に降ったのが1579年。
そしてまた、久武親直が、兄の死を受けて家督を継いだのも1579年で、
久武親直が伊予軍代に任ぜられるのはその後の1584年で、天正の陣の前年である。
さらに、上記の通り、知行を与えられた理由が、
「伊予へ出陣した際、先手となって数カ所の城を攻め、勝利を得た」のであれば、
長宗我部による南予侵攻であると考えられ、「愛媛県史」によれば、
「1575年早々より幡多・高岡二郡の兵で攻めさせ、長岡・土佐・吾川三郡の兵を持って東西に備えさせた(長元記)」とあり、その後、久武親信の討死で侵攻は一時頓挫したものの、
その後、天正八年(1580)~九年にかけて、長宗我部軍は、一転して北之川氏を三瀧城(城川町)に攻撃し、北之川親安を戦死させたという(元親記・土佐物語)。とあり、
1584年8月、久武親直が伊予の軍代に任じられた(元親記)。とある。
これらを総合的に考え、伊藤嘉右衛門家定が新居郡 萩生に赴任したのは、
1579年〜1581年ではないかと考察する。
金子家家老 伊藤嘉右衛門家定
冒頭でも述べたように、家老職であり、かね姫達を土佐へ落ち延びさせたにも関わらず、
その足跡が謎に包まれているのは、その赴任期間があまりに短かったことが一因ではないだろうか。
さらにその職務には、長宗我部からの目付的な意味合いも強く、
元親の命を伝える役割もあったであろうことも推測できる。
新居郡から見れば“よそ者”であり、“新参者”である上、新居郡での家老としての活動期間が、
実質5年前後であろうことから、伊藤家定に関する記述が少ないことは不思議ではない。
しかしながら、この伊藤嘉右衛門家定が、短い期間ながら、二心なく与えられた職務を全うせんとしたことは、
少ない記録からも確認できるのではないだろうか。
その点、以下に、管理人による独自考察を記する。
新居郡 萩生と伊藤嘉右衛門家定
考察その1;萩生に残る地名「黒岩」
国道11号線が東川に架かる橋を黒岩橋と言い、
この黒岩橋の南側、旧街道の橋も同じ黒岩橋という名前がついている。
また、伊予古城砦記の中に「小味地村黒岩(現、大永山小味地地区)に黒岩城と呼ばれた、
城主越智信濃守道員の居城があり、治良丸は黒岩城(二の丸)の出城があったところと言われております。」
との記述がある。
しかしながら、越智信濃守道員の黒岩城は、越智信濃守道員の墓が西条市飯岡堀の内にあること、
飯岡に越智姓が多いことなどから、西条飯岡説が正しいのではないかと考察する。
では、この萩生の「黒岩」は何か?
管理人は、伊藤嘉右衛門家定が、この地に来る前に赴任していたのが、
土佐の知行の一つである「高岡郡黒岩」であって、そこで、南予侵攻の際に武功を残し、
これにより五十石から五百石へ加増され、新居郡 萩生へやってきた。
その際、自らの知行に「黒岩」の地名を付けたと考察するのである。
考察その2;伊藤嘉右衛門家定知行に於ける居館「治良丸」
「地名の由来 新居浜」に「治良丸」(萩生二一四六〜二九五五番地)は二の丸のことで、黒岩城の出城とある。
ここでもやはり天正年間に越智信濃守通員が、大永山村、小味地に居城を築き、人々は、黒岩城と呼んだ。
城主は、二の丸や山麓に、桃、柿、栗、茶、ミツマタ、コオゾを植林し、豊富な水と、食料の自給の出来る、
特色のある城であった。外に三の丸が、山腹の平坦にあった。とある。
しかし、管理人の考察では、この記述には不自然に感じるところが多くあるのである。
1.大永山村 小味地に居城をとあるが、小味地には伊藤姓が多いこと。
2.尾根一つ西には「小河城」、そして尾根一つ東には「高尾城」(新居浜)があり、小味地にも山城が必要か?
3.天正年間に築いたとあるが、この時期に何に備えて築く必要があるのか?また、そこまで特色のある城でありながら、天正の陣において籠城の記録がないのはなぜか?
などである。
では、この記述の越智信濃守通員を伊藤嘉右衛門家定に替えて読んでみてはどうだろう。
天正年間に築いたことや、(見ず知らずの地への赴任のため、)食料の自給をする必要があったために植林をしたこと、そして、元あった「小河城」を自らの前知行であった土佐 高岡郡「黒岩」にちなんで、別名として(その他新たに付けた「黒岩」とともに)「黒岩」の城と呼んだのではないかと想像出来ることなど、腑に落ちるようになるのである。
〜丸には〜の土地、開拓地といった意味もある。
上記にもあるように、様々な樹木を植林し、豊富な水があり、食料自給のできる、
【治めるに良い土地】=治良丸ということであると考察するところである。
考察その3;片岡光綱公援軍の際、縁のある伊藤家定が治める「黒岩城(=小河城)」にて休息
考察その2の裏付けにもなると考えるが、
前述したように、高岡郡黒岩において、大藪伊藤氏と片岡氏は間違いなく縁があったのである。
このことからも、高岡郡黒岩に知行を得て赴任して居たのが、伊藤家定であり、
その後、新居郡 萩生に知行を得て赴任し、元縁のあった高岡郡黒岩の片岡氏が金子城へ援兵を派する際に、
新居郡まで導いたと考えられることは、いたって自然な考察なのである。
考察その4;大藪伊藤家の通字「祐」の字がなく、「家」の字であること
これも管理人の独自考察であるが、
長宗我部氏に降った金子家へ、目付家老として知行を得て赴任したのが「萩生」
この「萩生」の東に隣接する「中村」には誰の居館があったか?
そう、金子家の筆頭重臣である真鍋氏の居館「真鍋城」があった。
この真鍋氏の初代 孝綱の長子 二代 家綱は中村殿と呼ばれ、真鍋城を居館として居た。
「伊藤家之中奥記」によると、「女子 中村殿真鍋家に嫁す」とある。
この真鍋家当主 真鍋家綱より「家」の一字をもらい、伊藤家の通字である「祐」を捨て、
伊藤家定と名乗ったと考えると、その友好の証、そしてこの地で根を張ろうとする家定の覚悟が見えるのである。
考察その5;金子城落城後、かね姫達を土佐に逃し、須領に土着したこと
【考察】金子元宅の思いでも述べたように、
元宅は、天正の陣に際し、敗戦を予測し、子息を土佐へ逃れさせることを戦前より手配していた。
その一環に、この土佐から来た伊藤嘉右衛門家定もあるのである。
伊藤家定が、かね姫達を逃したのちに、須領に留まったのは、
自らがこの知行に骨を埋める覚悟で来た為に土佐に戻らなかったと考えられることは勿論、
無事に金子の子息を土佐へ逃れさせるためのしんがりの役目も担ったと考えるのである。
この小河城にまつわる昔話に「城ケ尾古主塔」というものがある。(※昔話はリンク先を参照下さい)
これは須領・小味地に隠れ住み、土着した伊藤家の人々の手によるものではないかと想像するのである。
金子備後守元宅追悼録と伊藤家之中奥記抜粋
高橋正太郎氏による「金子備後守元宅追悼録と伊藤家之中奥記抜粋」も、
上記の考察の根拠の一つになっている。
以下に、現代語訳し、抜粋掲載させていただく。
(抜粋掲載)※一部管理人による追記
初代伊藤嘉右衛門家定
金子家の家老 天正十三年(1585)五十一才(元和三年(1617)十月三日卒(83才か?))
伊藤家中奥記と白石先生著書による。
天正陣は金子城にありて金子対馬守元春を助け戦う
白石先生著書による 伊藤家中奥記は金子城落城等を記する高尾城其他記事なし
(以下現代語訳)誤か?「詔合」→「詔令」か/「先途見屈」→「先途見届」か。
嘉右衛門家定は(金子家の)再興を図らせる為に、
一旦、中萩生大谷に落ち行かせ、しかるのち、土州に落ち行かせる下知を実現させる為に、
深谷寺奥ノ山道を登らせ、ついに須領大永山に落ち行かせ、前途を見届けたのち、帰農した。
これが須領大永山の伊藤家の元祖である。
伊藤家中奥記による (金子家の)一族郎党三百余人土佐に落行
(元親天正検地帖)
女子 中村殿真鍋家に嫁す
二代目 嘉右衛門 慶安三年(1650年)卒
時に元和二年(1616)初代は主人金子元宅公の為の供養を完了した。
これは最初の嘉右衛門による供養であった。
その後、元和三年(1617)十月三日、父嘉右衛門が亡くなった。
二代目嘉右衛門は伊藤家代々供養するようにとの遺命を実行し、孫にも受け継がれたのである。