三好家を背景とした高峠 石川備中守体制の確立
石川源太夫暗殺によって、高峠河野予州家の施政は機能しなくなった。
天正之陣実録にも「近年河野家衰えて弓矢の道も末になったので、地頭給人らも河野の幕下に属せず、河野もまた強いて従えようともせず」といった記述がある通りである。
先の源太夫暗殺後、多くの者は石川備中守の麾下に参じたが、一部の河野予州家派の武骨者はこれに反発、石川備中守はこれを収拾することも困難な状況であった。
英傑石川源太夫という大きな柱石を失った郡中は乱れ、そう易々と石川備中守一党の思うがままにはならなかった。その施政は機能していないとはいえ、未だ河野伊予守通能は高峠に居り、予州家派の活動の芽は残っていたのである。
そのような状況の中、生子山城の松木安俊が河野本家弾正通直の命に従わず、城を攻められるに至る。
河野本家による生子山城 松木安俊の追討
古文書には「天文二十三年(1554年)安俊、湯月城河野本家主人河野弾正通直公竜雲寺に随わず、己の居城に立て籠り、国中掠む。左京太夫通宣及び右衛門太夫来島通康等を使いこれを攻め亡ぼし、是時修理亮安俊討死」という内容が記されている。
この松木氏、後に天正の陣に参戦する三河守安村以前の系譜を簡単に比較検討したい。
新居浜市萩生松木系図にもこの記載があるが、享年天正七年四月九日となっており食い違いがある。
別の系図によると、
【松木家】
保村(石川虎之助が備中から高峠に入った大永年中に六人の郡衆に数えられた。大永四年没)
└修理亮俊村(享禄年中の黒川との戦に参戦した。天文二年没)
└伊賀守安俊(天文二十二年十一月十二日没)
└修理亮安俊(伊賀守長宗我部追討之時討死なり、天正七年没)
└三河守安村へと続いている。
原文ままだが、この安俊が伊賀守なのか修理亮なのか齟齬がある。さらに天文二十二年なのか二十三年なのかも分かれている。このあたりは後の検証に任せて、この天文の末の生子城追討を時代背景から推察してみたい。
先ずこの天文の末は、石川源太夫暗殺の数年後であり、石川氏が三好氏と婚姻関係を結ぶ前である。さらにこの時期は先述の通り、河野伊予守通能は未だ高峠に居るもののその施政は機能していない。
このとき松木氏は石川備中守一党に与しており、松木氏単独で河野家に対して挙兵することは考え辛い。しかしながら、河野本家よりたかが一地頭の松木氏追討の将として家督を継いでいた左京太夫通宣と、その後見である弾正通直によって河野一門に加えられた右衛門太夫来島通康(このときはまだ村上姓)という河野本家総力を挙げてといっても過言ではない派兵を行っているのである。
しかも河野本家と来島通康は、先の石川源太夫暗殺の際には石川一党の後ろ盾となっている。
このようなことから察するに、河野本家としては石川源太夫の一件の際には石川党と利害が一致し、その讒言を容れたものの、中央で政権を握った三好氏と石川一党が結び、高峠を中心とした新居・宇摩二郡が独立することを恐れたのではないだろうか。実際に直後に三好石川は婚姻関係を結んでおり、その為の調整に使者が密かに行き交っていたことも間違いない。
そういった動きが河野本家に伝わり、河野弾正通直は松木氏を調略しようとしたのではないだろうか。
しかしながら松木安俊は河野通直の言に“随わず”、明確に河野家に反旗を翻したために松木追討の兵を挙げたと考えられる。単独で松木だけが討たれたのは、石川備中守、金子十郎元成としても郡中の予州家河野派反抗の収拾や、三好家との同盟も未だ成っておらず、この時点で松木援兵を出し河野家と表立って対立するには時期尚早であったのであろう。
こうして松木安俊は討たれ敗死、新居郡松木などその領地の幾分かは削減され、河野家としては松木氏の背後にある石川一党の牽制にはなったが、これにより新居・宇摩二郡にはもはや高峠河野予州家の影響力がまったく及んでいないことが明らかとなったのもまた事実である。
高峠 河野予州家の終焉と石川備中守体制の確立
石川源太夫が暗殺されて後、阿波の三好氏が初めて新居・宇摩へ使節を派遣していることが古文書によっても分かる。
天文二十二年閏正月、阿波の使節が悠々と豪族諸家を訪ね、ねんごろに酒食饗応の待遇を受けているのである。
そのような中、先述の通り松木安俊が河野本家により討たれたが、石川備中守通昌と金子十郎元成はこの窮地を好機に転換すべく事を起こす。既にその思うままとなっていた河野通能の一子宗三郎に高峠から通能を追う献策を行うのである。
宗三郎をして通能を高峠から追わせる口実を想像するに、
「この度の松木氏の反乱を引き起こしたのはひとえに石川源太夫の死後続く郡中錯乱のせいである、そしてその討伐が我等予州家ではなく本家によって行われたことは祖父通存(予州家でありながら柳原殿として本家に対し力を持ったことは先述の通り)もさぞ無念に思うことでしょう。ついては父上(通能)祖父通存に習い郎党を率いて柳原殿にお移り頂くことで、再び本家に対して力を得て頂くばかりでなく、この郡中錯乱の対立も治まり、河野家盤石の体制を取り戻しましょう。」
といったところではないだろうか。
石川源太夫亡き後、冒頭の引用の通り郡中を治める気力まで無くしていた通能は、増大する石川党を背景とする宗三郎の言に反することも無く、石川一党に反抗していた予州家の家臣達を連れ弘治元年〜二年にかけて(中国治乱記等古文書により弘治年間には通能が高峠に居たことが分かる)柳原館へ移った。
これをもって対立勢力の一掃に成功し、郡中錯乱は完全に鎮定し、河野宗三郎を傀儡とする石川備中守通昌ならびに金子十郎元成を中心とした石川一党が名実共に高峠の実権を握ったのである。
その後の弘治二年、金子十郎によって阿波三好氏に連なる大西氏を介して三好長慶の娘を石川通昌の子通清に娶ることに成功する。これにより阿波三好氏を後ろ盾とし、その権勢を確固たるものとしたのである。