「郡中錯乱」石川備中守通昌による政変

高峠城に於ける河野伊予守通能・石川源太夫一党と、石川備中守通昌・七人の郡衆一党との権力争いは、「石川氏の台頭」でも記した伊予河野家と細川のちに三好家抗争の縮図である。

 

天文年間に繰り広げられた「郡中錯乱」と呼ばれた二党の対立の経緯を追ってみたい。

石川源太夫による施政

予州家河野通存が柳原館へ移るに当り、子通能に自らの寵臣であった石川源太夫を残したことは先述の通りである。

 

この石川源太夫、河野通存に見出されただけのことはあり、二郡随一の知勇兼備の名将であった。

もっぱら予州家の信頼厚く、通能の執政としてこれによく仕えた。

 

天正陣実録や澄水記等の古文書にも「思慮深く情にも厚い源太夫には地頭給人もよく従い、郡内のもめ事などほとんどのことは源太夫に任せておけば片付いたので、仁徳のある人だと領民も皆崇敬した」と記されている。

 

皆から慕われ権勢も仁徳もある剛直な将である石川源太夫は当時この地方における第一の要害である高尾の新城に居城したので、石川備中守通昌をはじめ郡内に名を馳せる七人の郡衆(新居郡の金子・松木・高橋・藤田、西條の近藤・徳永・塩出)等であっても永きに渡りその麾下に甘んじるより他なかったのである。

細川政権崩壊による石川備中守通昌の自立

中央での政権争いの為の背後の憂いを絶つ為に石川備中守通昌を高峠に遣わし、伊予河野家との均衡を保っていた細川氏だが、天文十八年(1549年)の江口の戦いによってその政権が崩壊し、三好政権となる。

 

石川備中守通昌が高峠に於いて自由に活動出来なかったのはただ石川源太夫の為だけではなく、細川氏の意向が強く反映していた為であるとその背景より推測される。

 

よってこの天文十八年の細川政権崩壊を期に、通昌は公然と河野予州家一党と相対する姿勢を明確にする。

 

先ず河野通能・石川源太夫派に対峙する大義名分を得るべく、高峠に於いては河野通能の子で年若の宗三郎を言葉巧みに誑かし、意のままとすることに成功した。

 

さらに、来島騒動(1542年頃)後、1543年の河野通政急死、家督を継いだ河野左京大夫通宣の後見として復権した河野弾正小弼通直(※この家督争いは予州家河野通存を背景とする側と河野弾正小弼通直との対立から起きており、通直や村上通康は反予州家であったことが想像出来る)へも、石川源太夫について讒言を行ったことは郡中錯乱の際の動き(※後述する)から見ても明らかである。

 

勿論自らを推す七人の郡衆を中心とした諸豪族との結束も固めていったに違いない。

 

こうした背景から遂に河野予州家一党を一掃する郡中錯乱へと突き進むことになるのである。

高峠謀議と石川源太夫暗殺による天文二十年の政変

天文二十年、機は熟した。

 

石川備中守通昌一党の中心人物でこの政変の為、陰に陽に暗躍した金子十郎元成及び金子東市正は遂に、天文二十年(1551年)五月二日、二郡の地頭給人全てにこのクーデターに加わるよう呼びかけ、高峠城中に同志を集め河野宗三郎と石川備中守通昌の前で石川源太夫暗殺の謀議を行った。

 

さらにかねてより源太夫についての讒言を重ね、密かに利害の一致していた河野本家に対し折衝し、同五月十二日に村上通康ならびにその家臣原豊前守興生より「石川源太夫に正義はなく、ご心配でしょうが相応の事はやるから遠慮なく申されよ」という旨の書を得た。

 

この河野本家からの大義名分を得てその意を決し、五月半ば(十三日〜十六日の間)新居郡の真鍋、藤田、松木、西條の近藤、徳永、塩出、長安、宇摩郡の薦田、野田等を船形に召集し、源太夫に使いを出し、話があると申し遣わせたので、源太夫は疑いもせず六人の郎党を連れ高尾城を出立、木挽原に差し掛かったところで兼ねてから伏せて置いた二百騎ばかりの兵でいっせいに襲いかかった。このことからも石川源太夫がいかに豪勇のものであったかが窺い知れる。

 

澄水記には「源太夫は元来その心が広く、知恵深いものであり、我が身を顧みずに討たれることを本望とした」とあり、是非もなしと奮戦した後潔く討たれたものと思われる。

 

“源太夫討たれる”の急報に接した高尾城では其の長子源吾が自害(高尾城麓の桜木神社に祀られる)。幼子であった次男源六は捕えられ前神寺にて出家、秀海と名を改め、徳祥寺の住職を勤めたとある。

 

石川源太夫は死してなお人々に惜しまれ、討たれた主従七人はともに木挽原のむくの木の下に葬られ、畏敬を表して「おたちきさん(大太刀君)」のむくと呼ばれ祀られた。

 

諸将にもその死を悼むもの多く、また大義名分を得ているとはいえ人望厚い石川源太夫暗殺による影響を最小限にし、これ以上の郡中錯乱を避ける必要からも、五月十七日には高峠として公に保國寺に於いて観音懺法の法事を執り行い、罪過を懺悔する姿勢を明確にした。