金子城の激戦(前半戦)
358頁より377頁まで
著者 白石友治氏による考察
天正の陣は秀吉の大軍を迎えて長宗我部元親が一族国人を率いてて乾坤一擲の大勝負をしようとしたのだが、四国の兵は雲霞の如き上方勢に気を呑まれ、どこでも華々しい戦はなかった。
武勇絶倫といわれる東条関兵衛実光(甲斐源氏の出自を持つ阿波の豪族で元親の阿波侵攻により、弟、東条唯(只)右衛門を人質に出し降伏した。四国征伐では木津城を守備するが、秀長軍にいた叔父の東条紀伊守の説得により戦わずに土佐に退却する。帰国後元親の命により切腹。妻は久武内蔵助の女で元親の養女。)ですら、羽柴秀長の調略によって木津城の守りを棄てて土佐に退却し、岩倉・脇の守将、長宗我部新右衛門親吉もまた、這々の態で逃げ帰った。
元親の弟にして知勇兼備の将と称せられた香宗我部親泰さえ、牛岐城の守備を捨て、上方勢と一戦だに交えずして土佐に退却してしまう始末であった。
ただ、僅かに気を吐いたのは、江村孫左衛門・谷忠兵衛等の守る一宮城に於いて秀長の率いる数万の兵に対し、十数日間戦闘を継続したが遂に和を講ずるに至ったのである。
それにもかかわらず、伊予新居郡の金子備後守の統率する二千余騎の寡兵のみ、毛利の大軍三万余騎に拮抗して一歩も退かず、全軍壊滅するまで火花を散らしたのである。新居郡中に於いても金子城・高尾城の戦が最も激甚を極め、往古の戦争中稀に見る程の戦闘であったが、土地の偏在と戦記に見るべきものがなかったために、一般に知られていないが、天正十三年七月十八日、備後三原の陣営にいた輝元が、安芸二子城の留守城番であった桂左衛門太夫就宣に宛てた書状にも「豫州表金子城のこと、やっとのことで落とせたようである」と報せていることや、同年七月十四日、小早川隆景・吉川元長・安国寺恵瓊等、書を戴き、金子城落城の事を秀吉に報じ、同月二十一日、秀吉の返書にも金子城落城を祝し、快哉を叫び、両川戦功の多大なることを激賞したことは、その戦闘の如何に猛烈であったかを雄弁に物語るものである。
にもかかわらず、伊予の歴史にはこの戦記が全くなおざりにされている。ただ、澄水記・天正陣実録等も皆、西条地方の著述であるので、金子地方の情勢に暗く、いずれも金子城の戦況を記述していないのははなはだ遺憾である。
にもかかわらず、土佐の史書には特に金子陣としてそれぞれ金子城激戦の記事を載せてあるだけでなく、土佐方の援軍として金子城に入り城将と共に北谷口に於いて戦死を遂げた片岡下総守光綱や、馬淵口に於いて小早川秀包の為に討たれた花房新兵衛等の記事が判明している。そうして驚くべきは光綱の率いる土佐援軍中の金子城に入った将士の名が百五十余人も明瞭に解っていることなど、実に珍しい事実である。
また、金子城を攻めた毛利軍の方面から見ると、萩藩閥閲録二百四十余巻・毛利氏四代実録考證論断数巻及び吉川家文書中金子城に関する記事が満載されている。著者はこれを調べる為、毎日毎日毛利家に詰めて、随分金子及び伊予に関する史料を得たが、なにぶん元宅公三百五十年忌に間に合わせる早急の仕事で、随分あさり洩らした史料も沢山あろうと思うが、我々金子村の民としては幼少嬉戯のうちからこの元宅公に対してこれほど偉い人物はないと思っていた。ところが、沢山の史料を集めるに連れて、それが如実に裏書きされたのである。しかも、それはただ武勇だけでなく、その人格に於いて築城・要害・農耕・用兵・戦略・外交・人望等にまでもそのうんちくの窺い知ることの出来ぬ人物である。金子城址の松風は飄々として公の威徳を讃えているが、地下の白骨はとこしえにもの寂しく、英魂は今いずれの空に休まれているのであろうか。春秋去来三百五十年、天正の当時を語れども英雄の心中は郷土の人以外に誰がよくこれを知るであろうか。読者よ試しに想像してみられよ、澄水記・天正陣実録等には新居郡戦闘の激戦地を高尾・野々市とし、甚だしきは七月二十八日高峠落城としているが、正確な史料によれば高尾落城の翌朝、残兵野々市に於いて決戦したのであって、高峠城には殆ど戦はなかったという、澄水記・天正陣実録取材の真相はすこぶる怪しい。
金子城・名古城の戦闘には隆景の東兵と称せられた輝元直属の勇将、福原式部少輔元俊・宍戸彌三郎元秀の率いる熊谷豊前守元直・益田越中守元祥等の猛将が先鋒となり、吉川元長自ら率いる中堅隊と力を合わせ、金子城を落としたのである。毛利の兵将中で金子城攻めにおいて戦功を賞せられたるものの中でも、天野少輔四郎元勝・羽仁源左衛門・小早川藤四郎秀包等、粉骨砕身抜群の功名により感状を与えられている。
諸君一日杖を引きずって金子城に登って御代島の後ろに点在する諸島を眺めれば天正の昔風雲急なる時、これからの戦いを按じて中国の空を睨み、眉宇の間にただならぬ決心をした元宅の英姿を思い浮かべることが出来る。更に西に行って王子山に行かれよ。そこには土壌中に今なお刀槍、刀剣の腐蝕したものが多々あるのを見る事が出来る。なおまたお茶屋谷と王子山の間には名古城より王子山砦を陥れ、破竹の勢いを以て東進する吉川軍に対抗するため陣を張ったと称する「陣張谷」やその前程に兵を伏せた「伏谷」の小名が今もなお在り、往時の戦闘を追懐することが出来る。また中央出丸より東北を眺めると西の土居構・高築・尾尻川の防御工事、檜林の表城門等指呼の間にあり、渾身の血は湧いてそぞろ昔を偲ぶことが出来る。
更に著者が諸君に告げようとするのは最も史料に価する「西條誌」二十巻中、我金子城程城郭の広大なのは新居郡中他に一つも見いだすことが出来ない。以てその規模の広大なのを思わなければならない。
もう一つ冒頭に殊記しておかなければならないことは、天正戦死者の遺族が祖先の霊を祀る命日を八月六日としているものが大変多いということである。之は新居・宇摩の諸城皆陥落して、敗残の将士は一度山谷に引退したが、恥を知り名を惜しむの輩は三々五々忍んでそこかしこから集まって来て、既に空城となった金子城に入り、再び籠城して、遂にその日再び攻落されて戦死した日である、此の間の事実を天正陣実録に認めてあるが、この書は澄水記編述以後の著であるので、史料により之を補添したものと思われる。
金子城の戦記を記すに当たり、その当時より今に現存している古文書を骨とし、なお左の有力なる伝説を参考とした。
1.城兵の飲料水はチヌの池より湧き出る清水を以てしたこと、戦争と暑さでこの付近には水を飲みに来て倒れた兵将が沢山あったとの説。
2.毛利の兵将が久保田の金子河原で洗濯中の老婆に金子城の要害渓流があるか尋問したという説。
3.この戦があった年はいつにない酷暑で兵将は戦争よりも暑さに悩まされたとの説。(もっともこの説は澄水記、天正陣実録にも同様に書いている。この日を太陽暦に直して計算すると、八月九日に当たるので一年中で一番暑い頃である。)
4.西の土居構・東の土居構・高築・尾尻川・お茶屋谷・地獄谷・陣張谷・伏谷・王子山砦・東櫓・乾櫓・滝ノ宮口・馬淵口・上棹・下棹・寺門口・北谷口等の現存していること読者の実地調査を望む。
5.元宅公夫人が立川において遭難した事。
6.金子城は七月十四日落城して空城となり、敵が放棄したのを敗兵等寄り集まり、再び孤城を守ったのを八月六日再度小早川勢に襲われ全滅した説。
7.チヌの池の鯉を馳走して敵の勧降使を返した説。この説だけは著者の曾祖父白石輿兵衛と云う者の語り草である。輿兵衛は嘉永元年八月八日死す。この話を子や孫の寝物語にしたものである。
金子対馬守元春は兄元宅が二郡の主将として高尾城を守ることになったので、兄の指示により、譜代の者とともに金子城に立てこもることとなった。
敵兵襲来の警報しきりに来る、元宅は東豫二郡の総軍を指揮するため、高尾城に入ることになった。入城に先立ち、その本城たる金子城に諸士を集めてその向背を訊いた。その事については、長宗我部元親の旧臣吉田次郎左衛門が盛親死後に著した「土佐物語」中「金子陣」の項に記してある。即ち、
金子備後守元宅諸士を集めて申されたのは、「秀吉諸国に下知して軍勢を差し向けられる上は、我々が運を開こうとする事、萬に一つもあるはずが無い。だからといって元親に誓った盟約に反して今また降伏を乞うことは武士の道ではない。天下の軍勢を請けて討死することは、最も武士の面目である。勇は先祖の面を起たし、義は戦死の屍を清めるのである。命の限り戦って死を善道に守るべきである。ただ、妻子は捨てておけないものであるので、落ち延びたいと思う方々は急ぎどこへでも立ち退かれよ。露程も恨みはせぬぞ。」と云われると、家老の三島源蔵が進み出て、「これは残念で悔しいことを承ったものである。殿は臣下を抱え、その恩義厚く、礼儀を尊びなさるのは、国家を保ち、乱を静めるためでは無かったでしょうか。月頃日頃禄を給わりながら、このような時に心変わりし、殿に対する不忠を行うようなであれば、どうして人と云えるでしょうか。敵がたとえ百万騎でこようとも、命の限り、勝つも負けるも時の運、城を枕にと思い定める他はございません。各々方、如何に!」といたけだかになって云うと、家老黒川左門を始め、一座皆同意し、「潔し三島殿、この中のだれが義よりも命を重んじ、恥を求めて名を失おうとする者がおりましょうか。」と皆一斉に声を上げて決死の覚悟を述べたのである。
元宅の奉行に白石若狭守清元といって、通称を新助とも云う老功の武者がいた。(その子信元は西條に住み、大生院早川の部隊を率いて高尾城に籠った。)かつては元宅に従って周敷桑村地方に転戦して武勇を輝かせた者であるが、既に老境に及んでいたため、元宅はこれを労り、その子等を出陣させ、清元にはこのたびの戦を避けて老後を養うように諭したが、まったく聞き入れず、真っ先に進み出て云うには「我等年老いたりと云えども、戦場の駆け引きは他の者にはまだまだ譲りません。敵は一万を越え、味方は僅かに五百余騎に過ぎずといえども、小勢を以て大勢に勝つ事は、古今その例を挙げるに数えられない程である。我等が家系は弓馬の家に生まれ、この城に奉行として高禄を給わってきました。泰平の時に人の上に立つ身でありながら、戦に臨んで及び腰では武夫の本意ではございません。老いて再び合う戦では無く、天下を相手にした晴れの場所であるので、老いたこの身の面目にはこのたびの軍奉行はそれがし、是非とも承らせて頂きます。」と云えば、元宅は笑って之を許した。清元の英姿はさっそうとしてその度量は既に敵を呑み、采配を振って戦陣を叱咤しようとした。老将でなおこのようであったので、一軍の士気は振るった。金子の兵は死を決して猛進すれば毛利軍が如何に多勢であるといっても、勝敗の結末を容易に観ることは出来ない感があった。
毛利勢の上陸
【六月下旬(二十六日頃)】毛利勢の上陸は味方の防戦によって御代島の上陸には目的を達しなかったが、各方面の陽動・偽上陸によって【七月早々】、天満、宇高、新間、氷見地方及び大浜、八町(今治地方)の三方面に分かれて見事な敵前上陸を敢行した。
【七月に入ってから二日】今日此の頃の暑さはまた格別で灼け付くように暑い、金子城兵の陣笠に白い布をつけて日を避け、胴一つ当てただけの軽装の者もある、中の出丸付近には木から木へ陣幕を張ってその下に腰を下ろして休んでいる者もある。山の下では青い稲田の畔や草原にここかしこと陣を張っている。尾尻川筋と土居構の内側には何カ所にも五人十人もの兵卒が絶えず城の周囲を警備している。
宇高・新間に寄せて来た敵兵が諸砦を焼いてその煙が天を焦がしている。敵兵が尻無川付近で陣を取るだろうとか、先日御代島に支えられて上陸することが出来なかったとの金子兵武勇伝の噂などが警備隊の話題になっている。
「先月末に長宗我部殿から、大殿は高尾へ行ってこちらは無人になるので、先月末に見えたのはかねての約束の援兵だと云う、随分強そうな将士だ」と噂している。之は花房新兵衛の一隊で金子勢の士気を旺盛にし、城方に一脈の光を投じられた。
東兵金子城下布陣
根拠 伝説三による
新間・宇高に駆け上がって垣生・郷・庄内辺りの諸砦を焼き払い、岡崎城の高地を占領した東兵に対しては、殿軍の将、元長(37歳)が搦手より到着するのを待って、力を合わせて金子城に討伐を決行するようにとの隆景の命令であったが、今日垣生・宇高地方の連勝に士気衝天の勢いに乗じて、一挙に金子城を乗っ取らんと威風堂々と押し寄せた。敵兵は一万数千、旗々剣戟は東新の平野を覆い、山川草木もなびく勢いで七月二日夕刻、金子川(現在の金栄橋)に押し寄せ、河岸に兵を休めた。その時かねて放っておいた敵情視察の小者が帰って来た。東兵の大将福原式部小輔元俊(44歳か37歳)・宍戸彌三郎元秀(38歳)等、之を引見してつぶさにその諜報を聞いた。
遥か向こうの金子城を指差して一々説明した。山の頂上に亭々としてそびえている赤松の鬱蒼たる中から、本丸の白壁がくっきりと見えている。その下に黒々と見えるのは灌木と雑草とがはびこっているのであろう。
城郭は自然の山を削りならした上に立っているのでその土壌もきわめて固いらしい、城山の下東の攻め口には小川に沿って鹿垣・乱杭を植え、小川の東手には何の為か2メートル以上もある高い土嚢を築いてある。前方(北口)には小川から乾の櫓下まで東から西へ一帯に土居構を築き、その合間の北谷口と寺門口の入り口には乱杭を打ち並べて、人馬の侵入を防いでいる。櫓下以西は泥濘の深田で人馬を入れることが出来ない。西北方の名古城は潰れたが、その南の王子山の砦は厳重で良将が固く守っている。攻め口はどうしても檜林の大城戸か、どんどん淵から上がって行った北谷口であろうと述べた。
福原・宍戸等の将は手をかざして北谷口を凝視したら、中央出丸の所から北谷口まで流れの急な一條の谷川が勢いよく流れている。もし北谷口を破る事が出来ても、此の谷川に支えられて本丸を落とす事は難しい。間者の者にその渓流の深さを聞くと間諜が云うには、「そうですね。谷川のあるところは観て参りましたが、西の土居北谷口の柵には警備の兵が多く詰めており、ことのほか厳重で、あの谷川に近づくのは難しく、百姓に問うても恐れて答えず、深さに関しては解りかねます。」という。であれば此の地方の土民に聞いてみようと人を遣わしたが誰も答える者がいない。偶然にも金子川の水たまりにておしめを洗う老婆が居た。これについて尋ねると耳が聞こえず、色々に手真似をしながら脅したり機嫌を取ったりしつつ聞いたところ「金子山に谷川はございません。」ではあの流れはなんだと指差せば、「あれか~、あれはお城主様がお米を撒いて流れのように見せかけて敵を防ぐ手だてだと云う事でございます。」と云ったので、之を聞いた敵将福原式部少輔等は唖然として声も無かった。
此の伝説は金子村に生まれた者で誰一人でも聞かない者が無い程有名な話である。此の老婆は戦後村民によって撲殺されたとも云うし、また城主の祟りで“てんかん”病になって狂死したとも言い伝えられている。此の老婆の墓は現在の金栄橋の西詰南の方の畑の中にキコクの木の生えた下に古塚があったとのことである。
金子城の戦い;緒戦
攻撃軍の将は之を聞いてそうであればただ一攻めに踏み破れと、万雷の如き喚声を挙げ、益田右衛門佐元祥(27歳)・熊谷豊前守元直(30歳)を先鋒として、大将御名代宍戸彌三郎元秀・福原式部少輔元俊の両人が指揮して平賀新九郎元相(38歳)・湯原弾正忠元綱(不明)・湯浅治部大輔将宗(不明)・小川右衛門尉元政(不明)・天野少輔四郎元勝(不明)・児玉右衛門尉就当(不明・就忠か)・飯田輿一左衛門元定(不明)・羽仁源右衛門元貞(不明)・市川三右衛門元直(不明)・田上藤十郎由資(不明)・内藤中務少輔元康(不明)・井上五郎右衛門元重(不明)・村上五郎兵衛(不明)・乃美兵部丞宗勝(58歳)・山田新右衛門(不明)・熊谷輿左衛門(不明)・日野新二郎景幸(1623年没)・岡惣左衛門(不明)・佐々部又右衛門元光(不明)・同家人三上某・佐武某・波多野某等、大手東口・北谷口・寺門口の三方より攻めかけた、その勢凄まじく鉄壁でも耐えられないと見えた。
一方土居構の内に居た金子勢の鉄砲組は頭から上だけを土居から出して、それぞれ一挺づつの鳥銃を持ってじっと構えていた。敵兵が大手口に寄せたので、皆土居の内側を右翼に集中しどやどやと右へ右へと集まったが、屈み加減に走るので馬に乗った武将だけが「静かに静かに、頭を出すな頭を出すな」と小声で東西に駆け回っているから、十騎程度が敵兵に目立っているだけで、土居の陰を走る兵卒は敵からは一人も見えなかった。
騎馬の侍は時々手招きなどをして芸州勢を侮った。敵は余りの小勢に拍子抜けしたが、嘲笑されるのを怒って、今日のうちに一気に中の出丸まで駆け上り、一揉みに踏みつぶせと大将は声の限りに号令したので、勝ち誇った毛利勢は我先にと進軍して手柄を立てようと鬨を挙げて土居際まで押し寄せて来た。その時東の高築の出丸に出張っていた城兵は、敵の側面から長槍を扱ってむやみやたらに突きかけた。之と同時に先刻から土居構の中に待ち兼ねていた伏兵は一斉に鉄砲をつるべ撃ちにした。敵は勝ちに乗じて押し寄せたので、その間隔が目と鼻の先に迫っていたから、土居の陰から打出す弾はことごとく敵に命中して無駄が無かった。毛利兵、これに倒れる者数知れず、諸勢狼狽して喧囂を極め、あわや潰走するかと思われたが、その日の先鋒であった天野元政(26歳)力戦して備えを立て直し、自ら殿をつとめて兵を退かせ、寄せ手の全軍は金子河畔の松林中に陣を取り、城兵の夜討ちを慮り、盛んにかがり火を焚いて夜半を警戒した。
土佐の援軍 片岡光綱着陣
城方に於いても山上山腹かがり火を競い、夜の対陣となった。気の早い毛利勢中には、戦に昼夜の区別は無用、この機を外さず遮二無二突撃して今日の恥辱を雪ごうと云うものさえあったが、大将に慰められて僅かに夜の明けるのを待ちかね、【翌七月三日の早暁】から土居構に押し寄せて戦を始めた。その日の昼下がり、東櫓に詰めて居た城兵が立ち上がった。滝の宮金子川の岸にへんぽんたる旗印一流れを先頭に、二百騎ばかりの兵が隊伍を整え鎧の袖・兜の星には暑い西日を一杯に受けて輝いている。弓・槍組と続いて現れ、ひた押しに北進してくるのを見た。平地からは見えないが山上に立っている東櫓の番兵にはありありと見える。暫く凝視していると旗印には紛れも無い蝶の紋所がある、これこそかねて待ち兼ねた土佐からの二度目の援兵、片岡殿(妻美和は元親の娘、父茂光の妻は兼序の娘、年齢不明)の率いる一隊(二百~三百余名)であった。番兵は直に守将金子対馬守に告げた。城方の兵は土佐勢到着の吉報に復活誕生のいきを吹き込んだように歓喜してして蜻蛉と七つ亀甲の旗を振った。土佐勢も旌旗を振って遥かに之に応じた。城方よりは直に出迎えの士を遣わし、あらまし戦況を伝え、長途援軍の労をねぎらい、即時入城休息されるように願ったが、大将片岡光綱が云うには、「御出迎えご苦労に存ずるが、我等は兵を疲れさせないようにゆっくりと小味地から行進し、小河城にて休息致しましたので疲れてはおりません。承るところ、城門では戦の最中のようで在りますので、とりあえず城門に廻って、毛利勢の手並みを試す為、彼の後ろを取り巻き、軍陣の土産に首の二つ三つ持って大城戸より入城致しますので、その旨、城主へ申上げ、裏表より挟み撃ちにする準備をされよ。見受けるところ城は堅固のようですので、守り手はかねて聞き及ぶ猛者の金子氏、我等後詰めして布陣すれば十日や二十日はまったく落ちることはないでしょう。そのうちに元親より次の援兵が来るでしょう。」と遣いを返して旗を巻いて金子川に沿って下り久保田から高築に上り毛利兵の後ろに出た。
毛利勢は城門から出て来た軍勢ではないので、最初は味方のように思い気を許していると、背後に当たってにわかに喚声を挙げ、大将光綱自ら兵を差しまねき、敵の背後を縦横に走りまわり、士気を鼓舞して大声を挙げて、「土佐方の援軍片岡左衛門尉光綱ここにあり、手並みの程を見せて呉れん」と四方八方に斬って廻れば、城方之を合図に一度に堰を切って出て、南北から挟撃して攻立てたので、毛利勢の狼狽は一方ならず、小敵を侮り城兵が柵外に出てくるとは夢にも思わなかったので、散々に討たれ、おおいに兵を損じて金子川の陣所に引き退いた。
戦いに勝った片岡光綱は馬上ゆたかに悠々と檜林の城戸口に向かって入って来た。城将元春は先程から中央出丸に出て湯帷子の上に麻布子の様な黒い陣羽織を来て七つ亀甲の定紋の付いた黒塗りの大陣笠をかぶり、左手に扇をとってあおぎつつ、右手に青竹をもって指揮していたが、光綱の馬上姿が見えると笠をとって手招いた。
考察
秀吉の書状「豫州の金子城を包囲していたところ、長宗我部勢が出た(中略)これと一戦に及び、すぐに切り崩された。」云々による。
土佐物語には「斯る所に岡豊勢二百余騎、元親の下知として合力に馳せ加わる。軍兵いよいよ勇をなし、寄せる敵を待受けたり。」とある。元親は此の方面の防御を金子に委ねたことが、第二一九頁金子文書に「阿・讃両国の事を全てその表手当にて当国の事は惣国元親云々」とあるように証明すべく、また元親の将桑瀬(?)・高野(高野義充 別称 和田勝右衛門)等高尾に籠ったことはその文書によって明らかで、援軍として片岡・花房等が来たことも明瞭で、なお、元親の臣伊藤隠岐守(伊藤近江守祐晴とは別人か?)が大生院大浜城(城主については、伊藤丹後守・秦備前守元冶・長宗我部親成・伊藤隠岐守等まちまちで、誰が城主か不明。)にとどまって高峠の行動を監視して居たとも伝えられている。大体地形・地名及び古老の伝説による。土佐兵の援兵は三度来ている。天正十二年八月十八日、土佐方から元宅に宛てた書状に「そちらに人数が渡った時には、親泰を早々に出陣させよう。そのうち、こちらからも一人しっかりと申し付けるつもりである。」とあるように、元親の胸算は、第一に香宗我部親泰を、第二に片岡光綱を派遣するつもりであったようである。しかし、親泰は牛岐城に於いて上方勢に度肝を抜かれ、逃げ帰ったような人物であったから、言い訳をして、土佐兵の主力から離れて伊予出陣を好まなかったので、先ず早々に花房新兵衛を遣り、次に片岡光綱を派したのである。花房新兵衛は光綱戦死後なお馬淵口を死守して居たので、恐らく片岡の軍とは別の一隊であると断定したのである。
それから、第三回侍大将に軍兵百騎足軽三百人を派遣されたが、援兵は諸城陥落の後にて遂に戦に間に合わず、むなしく桑瀬より引き返したのである。この事は澄水記・天正陣実録も皆説を一にしている。この他高尾城に籠った土佐勢があったことは後章に説く。
片岡光綱の延着は、七月十四日、隆景・元長・安国寺恵瓊等が秀吉に金子落城の報を伝えたところ、秀吉の返書に「去る十四日の書状、今日二十一日に至り、大坂に到来したので見た。豫州の金子城を包囲したところに、長宗我部の軍勢が背後より出て来たところ、一戦におよび、多数討ち果たし、切り崩したことで城を乗っ取ったとのこと、誠に御手柄であり、この書中では言い表せないほどである。」とあるように、金子城攻めは【七月二日】より始められたので、それ以降に到着し、背後より毛利勢を苦しめ一旦入城したことは、土佐物語・金子陣の頁、片岡文書による。
高築を東の土居と言ったが、その地の戦略的価値は明らかでなく、「金子城の地形と要害と防御工事」の項に述べておいたが、今考えてもここは要害ではなく、真鍋氏の邸跡であろうと思う。
金子氏の一族真鍋近江守孝綱に三子あり、長男家綱は弘治二年(1556)二月三日に父が死んだのでその跡目を承け、本領中村におり、中村殿と号し、次男の左京兼孝は松木におり、松木殿と称した。三男行綱は東屋敷におり、東屋敷殿と言った事が真鍋系図にある。中村、松木共に判明しているものの、東屋敷の所在判然せず、あるいはこの東の土居構付近に当たるのであろうか。
片岡光綱のとった小味地越えは【七月三日】、隆景が既に高尾丸山を囲み、その付近に兵を充満させていたので、西條付近を経て中村に出て金子に来る近道を選ぶ事が困難なので、小味地の下、大永山に金子の属城小河城、高雄城等があるのでこれらへ立ち寄って来たものと見たのである。
>金子城の激戦(後半戦)へ続く