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なお、各記述は私(管理人)による考察を元にしており、史実を保証するものでありません。
四国攻め最大の激戦【天正の陣】
羽柴秀吉の四国攻め
天正十三年は四国史上最も激動であったといって良い。
同年春の伊予平定をもって長宗我部元親による四国統一が成った(※諸説あるが)その夏には、羽柴秀吉の四国攻めによって四国全土がその軍門に下ったのである。
決戦なき長宗我部勢
6月16日遂に羽柴秀長を総大将とする十万を超える大軍勢が四国に侵攻。
元親は四国全土を指揮するため、要衝 阿波 白地城に本陣を敷き各地に諸将を配したが、弟 香宗我部親泰や重臣 谷忠澄ら上方をその目で見てきた外交に秀でた者達は、平定戦により疲弊した四国勢では万に一つの勝機も無いと悟っており戦意は無かったのである。諸将が戦わずして退却を繰り返し、降伏を勧める有様に激怒した元親はひとり土佐本土徹底抗戦を主張した。
四国勢でただ一人、「義」を貫き徹底抗戦した金子備後守元宅
そうした中、この四国攻めにおける最大かつ唯一の玉砕戦となったのが「天正の陣」である。
秀吉の軍略には必ず直前に降伏した家に先鋒を務めさせるというものがあるが、四国攻め開戦に際し、天正十三年一月、正式に臣従をした毛利家が伊予方面へ派兵することとなった。
讃岐へは秀吉の寵愛を受けた宇喜多秀家に黒田孝高らを付け、阿波へは羽柴秀長、秀次を派していることや、長宗我部諸将の降伏進言からみても讃岐・阿波2方面はある程度調略がなされていたとも考えられ、寄せ手の大戦略として白地の元親を背後から追い詰める伊予の最大拠点である新居・宇摩の二郡を毛利にも被害の出る力攻めで壊滅させ、早期の降伏を図っていたとも考えられる。
小早川隆景を総大将とした毛利軍を迎え撃つは新居・宇摩の実質的な盟主であった金子備後守元宅。
彼は新居の一国人でありながら、早くから土佐の長宗我部、安芸の毛利、讃岐の香川信景等と好を通じ、湯築河野家を牽制しながらその領地を保つ程の武将であった。
金子元宅は譜代の臣で無いにも関わらず長宗我部元親との「義」を貫き、十五倍もの兵力差に臆することなく徹底抗戦し玉砕した。しかも従う諸将は勿論、領内の僧兵等もゲリラ的に寄せ手に襲いかかるなど、新居・宇摩二郡のまさに総力戦となり、遂には知謀に優れ冷静沈着な小早川隆景をして城だけでなく神社仏閣をもことごとく焼き払わせたほどの焦土戦となるに至ったこの天正の陣。
「義」よりも「利」が優先した戦国の世にあって、なぜ長宗我部譜代の臣でもない金子元宅がこのような選択をしたのか、その人となりに迫り、そこで戦った人々に光を当て、天正の陣に至る経緯を様々な角度で捉えることで、その謎を解こうとするものである。
天正の陣とは
天正の陣とは何か。
様々な一次史料ならびに二次史料が存在するが、現在語られる天正の陣については、主に軍記物を原案に、著者各々の考えや、それが書かれた時代背景により、翻案となっているものが大半である。
また、天正の陣の全体像を伝えるものも少なく、時系列も不明瞭で、当時の状況を想像することが困難である。
そこで私は、次のように史料別階層的に整理した上で、そこに独自考察を追って加えることで、天正の陣のすべてを紐解いてみようと挑戦する。
史料から独自考察する【天正の陣】
天正の陣の一次史料を読み解く
一次史料を元に天正の陣の真実に迫る
二次史料を加えた創造的考察
一次史料と二次史料から独自考察した天正の陣
一次史料に記述のある緒戦の後詰め決戦